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董貴妃は深窓にあるうちから美人の誉れがあつた。召されて、宮中に入り、帝の寵幸(チヨウカウ)をたまはつてから、やがて身は懐妊のよろこびを抱いてゐた。
彼女は、董承の娘であつた。
虫のしらせか、その日貴妃は、何となく落付かない。絶えず胸さはぎのやうなものを覚えてゐた。
秘園の春は浅く、帳裡(チヤウリ)の瓶花(ヘイクワ)はまだ紅含(コウシン)もかたい。
「貴妃、優れない顔色だが、どこか悪いのではないか」
帝は、伏皇后を伴うて、共に彼女の後宮を見舞はれた。
貴妃は、雲鬢(ウンビン)重たげに、
「いゝえ……」と、かすかに花顔を横に振つて云ふ。
「なんですか、ふた晩つゞいて、父の夢を見たものですから」
さう聞くと、帝も皇后も、ふと眉をくもらせた。董承のことはかね/゛\べつな意味で、案じられてゐるところである。
折ふし、宮中に騒然たる物音が沸きはじめた。何事かと疑つてゐるうちに、後宮の碧門を排し、突忽(トツコツ)として姿を現した曹操と武士たちが、玉廊を渡つてこれへ馳けて来た。
曹操は、突つ立つた儘(まゝ)、
「ああ。何たる悠長さだ。陛下。董承の謀叛も御存じないのか」
と、声を励まして云つた。
帝は、冷静に、
「董卓は、もう亡(ほろ)んでゐる」
と、機智をもつて答へられた。
「董卓などの事ではありません!車騎将軍董承のことである」
「えつ……董承がどうしたといふのか。朕は何事も辨(わきま)へぬが」
「御みづから指を咬(か)みやぶり、玉帯に血詔を書いて降し給うたことはもうお忘れか」
「…………」
愕然、帝は魂を天外へ飛ばし、龍顔は蒼白となつて、わななく唇からもう御声も出なかつた。
「一人謀叛すれば九族滅すといふ。知れきつた天下の大法である。——それツ武士共、董承のむすめ貴妃を、門外に曳き出して斬つてしまへつ」
曹操の下知に、帝も皇后も、〔のけ〕反(ぞ)るばかり愕(おどろ)かれて、臣下たる彼へむかつて、万斛(バンコク)の涙をながして憐愍(レンビン)を乞うたが、曹操は、頑としてきかない。彼の満面、彼の全身、さながら憤情の炎であつた。
貴妃もまた曹操の足もとへ伏し転(まろ)んで、
「自分のいのちは惜(おし)みませんが、胎内のお子を産みおとすまで、どうかお情(なさけ)に、生きる事をゆるして下さい」
と、慟哭して訴へた。
曹操の感情も、極端に紛乱してゐたが、われとわが半面の弱気を、強ひて猛罵するかのやうに、
「いかん!いかん!かなはぬ願ひだつ。逆賊の胤(たね)を世にのこしおけば、やがて予に対して祖父の讐(あだ)の母の仇(かたき)のと、後日の〔たゝり〕をなすは必定である。——これまでの運命と思ひあきらめ、せめて屍(かばね)を全うしたがいゝ」
と、一すじの練帛(ねりぎぬ)をとり寄せて、貴妃の眼のまへにつきつけた。斬られるのが嫌(いや)なら自決せよといふ酷薄無残な宣告なのである。
貴妃は哭いて、練帛を手にうけた。悲嘆に狂乱された帝は、
「妃(ヒ)よ、妃よ。朕をうらむな。かならず九泉の下にて待て」
と、さけばれた。
「あはゝゝ。女童(めわらべ)みたいな世まい言を」
曹操は、強ひて豪笑しながら、しかも遉(さすが)に、そこの悲鳴号泣には、耳をふさぎ眼をそらして、大股に立ち去つてしまつた。
哀雲後宮をつゝみ、春雷殿楼を揺るがして、その日なほ董承と日ごろ親しい宮官何十人が、みな逆党の与類と号されて、あなたこなたで殺刃をかうむつた。
曹操は血を抱いて、やがて禁門を出づると、直(たゞち)に、自身直属の兵三千を、御林の軍と称して諸門に立てさせ、曹洪をその大将に任命した。
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次回 → 小児病患者(一)(2025年2月20日(木)18時配信)