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吉平の縄じりを把(と)つて、相府の苑(には)に曳き出した武士獄卒たちは、
「さあ、ぬかせ」
「誰にたのまれて、丞相に毒をさしあげたか」
と、打(うち)叩いたり、木の枝に逆しまに吊るしあげたりして拷問したが、
「知らん。〔むだ〕なことを訊くな」
とばかりで、吉平は悲鳴一つあげなかつた。
曹操は、侍臣を見せにやつて、
「容易に口をあくまい。こつちへ曳つぱつて来い」
と、命じた。
聴訴閣(チヤウソカク)の一面に座を設け、やがて階下にひきすゑられた吉平を、曹操は、〔くわつ〕と睨(ね)めつけて云つた。
「老(おい)ぼれ、顔をあげろ。医者の身として、予に毒を盛るなど、凡事(たゞごと)の謀(たくらみ)ではあるまい。汝をそゝのかした背後の者をのこらず申せ。さすれば、そちの一命だけは助けてとらさう」
「はゝゝ」
「汝、なにを笑ふか」
「をかしい故(ゆゑ)、笑ふのみぢや。おん身を殺さんと念じる者、ひとりこの吉平や、わづかな数の人間と思ふか。主上を僭(をか)し奉る憎ツくき逆賊、その肉を啖(くら)はんと欲するものは、天下に溢るゝほどある。いち/\そんな大勢の名があげられようか」
「口幅たいヘボ医者め。何としても申さぬな。きつと云はんな」
「益なき問答」
「まだ拷問が足らんとみえる。もつと痛い目をみたいか」
「事あらはれたからには、死ぬるばかりが望みぢや。ひと思ひに斬りたまへ」
「いや、容易にはころさぬ。獄卒ども、この老医の毛髪がみな脱け落るまで責めつけろ。息の根の絶えぬ程に」
下知をうけると、獄卒たちは仮借をしない。あらゆる方法で吉平の肉身をいぢめつけた。けれど吉平の容子は——その五体の皮肉こそ朱(あけ)にまみれてはゐたが——常の落着きとすこしも変るふうはなかつた。
むしろ見てゐる人々のはうが凄惨な気につゝまれてしまつた。曹操は餘り度を超(こ)して、臣下の胸に自分を忌(い)み厭(いと)ふものゝ生じるのを惧(おそ)れて、
「獄に下げて、薬をのませておけ。毒薬でなくてもよろしいぞ」
と、唾するやうに云つた。
それからも連日、苛責(カシヤク)はかれに加へられたが、吉平はひと口も開かなかつた。たゞ次第に、乾魚(ほしうを)のやうに肉体が枯れてゆくのが目に見えて来るだけである。
「策(て)を変へよう」
曹操は一計を按じて、近ごろ微恙(ビヤウ)であつたが、快癒したと表へ触れさせた。そして、招宴の賀箋(ガセン)を知己に配つた。
その一夕(イツセキ)、相府の宴には、踵(きびす)をついで来る客の車馬が迎へられた。相府の群臣も陪席し、大堂の欄や歩廊の廂(ひさし)には、華燈の燦(きらめ)きと龕(ガン)の明りが懸(かけ)連ねられた。
こよひの曹操はひどく機嫌よく、自身、酒間をあるいて賓客をもてなしなどしてゐる風なので、客もみな心をゆるし、相府直属の楽士が奏する勇壮な音楽などに陶酔して、
「宮中の古楽もよいが、さすがに相府の楽士の譜は新味があるし、哀調がありませんな。何だか、心が濶(ひろ)くなつて、酒をのむにも、大杯でいたゞきたくなる」
「譜は、相府の楽士の手になつたものでせうが、今の詩は丞相が作られたものださうです」
「ほう。丞相は詩もお作りになられますか」
「迂遠なことを仰つしやるものではない。曹丞相の詩は夙(つと)に有名なものですよ。丞相はあれでなかなか詩人なんです」
そんな雑話なども賑(にぎは)つて酒雲吟虹(シユウンギンコウ)宴の空気も今が〔たけなは〕と見えた折ふし、主人曹操は〔つと〕立つて、
「われわれ武骨者の武楽ばかりでも、興がありますまいから、各位の御一笑までに、ちよつと、変つたものを御覧に入れる。どうか、酒をお醒ましならぬやうに」
と、断り付きの挨拶をして、傍らの侍臣へ、何か小声でいひつけた。
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次回 → 美童(四)(2025年2月14日(金)18時配信)