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時ならぬ深夜、相府の門をたゝいて、
「天下の大変をお訴へに出ました。丞相を殺さうとしてゐる謀叛人があります」
と、駈(かけ)込んで来た一美童に、役人たちは寝耳に水の愕(おどろ)きをうけた。
いやもつと愕いたのは、慶童の口から、董承一味の企てを、直接聞きとつた曹操自身であつた。
「どうして其方は、そんな主人の大事を、つぶさに知つてをるのか。そちも一味の端くれであらうが」
と〔わざ〕と脅しをかけてみると、慶童はあわてゝ顔を横に振つて、
「滅相もないことを仰つしやいませ。私は何も存じませんが、正月十五日の夜、いつもくる典医の吉平と主人が、妙に湿つぽく話しこんでゐたり、慨嘆して哭いたりしてゐますので、次の間の垂帳の陰で偸(ぬす)み聞きしてゐましたところ、いま申しあげたやうに、丞相様に毒を盛つて、他日きつと殺してみせると約束してゐるではございませんか……。怖(おそろ)しさの餘り身がふるへ、それからといふもの、私は主人の顔を仰ぐのも何だか恐くなつてをりました」
曹操は動じない面目を保たうとしてゐたが、明らかに、内心は静かとも見えなかつた。
階下の家臣に向つて、
「事の明白となるまでその童僕は府内のどこかへ匿(かく)まつておけ。なほ、この事件については、一切口外はまかりならぬぞ」
と、言(いひ)渡し、また慶童に対しては、
「他日、事実が明らかになつたならば、其方にも恩賞をつかはすであらう」
と言つて退けた。
次の日、また次の日。相府の奥には不気味な平常のまゝが続いてゐた。——と思ふと、あれから四、五日目の明け方のことだつた。にはかに一騎の使(つかひ)が駈けて、典医吉平の薬寮を訪ね、
「昨夜から丞相がまたいつもの持病の頭風(ヅフウ)をおこされ、今朝もまだしきりと苦しみを訴へてをられまする。早暁お気のどくでござるが、すぐ御来診ねがひたい」
との、ことばであつた。
吉平は心のうちで〔しめた〕と思つたが、さあらぬ態(テイ)で、
「すぐお後より——」
と先に使(つかひ)を帰しておき、さて秘かに、かねて用意の毒を薬籠の底にひそめ、供の者一名を召しつれ驢に乗つて患家へ赴いた。
曹操は、横臥して、彼の来るのを待ちかねてゐた。
自分の顔を、拳(こぶし)で叩きながら、吉平の顔を見るなり、堪(た)まらないやうに叫んだ。
「大医、大医。はやくいつもの薬を調合(あは)せてこの痛みをのぞいてくれい」
「はゝあ、またいつもの御持病ですな。お脈にも変りはない」
次の間へさがると、彼はやがて器に熱い煎薬を捧げて来て、曹操の横たはつてゐる病牀の下にひざまづいた。
「丞相。お服(の)みください」
「……薬か」
片肱をついて、曹操は半身を擡(もた)げた。そして薬碗からのぼる湯気を覗(のぞ)きながら、
「いつもと違ふやうだな。……匂ひが」
と、つぶやいた。
吉平は、〔ぎよつ〕としたが、両手で捧げてゐる薬碗にふるへも見せず、和やかな目笑を仰向けて答へた。
「丞相の病根を癒し奉らうと心がけて、あらたに媚山(ビザン)の薬草を取寄せ、一味を加へましたから、その神薬の薫りでございませう」
「神薬。……噓をいへ。毒薬だらう!」
「えつ」
「飲め。まづ其方(そのはう)から飲んでみせい。……飲めまい」
「……」
「なんだ、その顔色は!」
〔がば〕と、起つや否、曹操は足をあげて、煎薬の碗と共に、吉平の顎を蹴とばした。
「この藪(やぶ)医者を召捕れつ」
次いで、彼の呶号がとゞろいた。応つ——とばかり一団の壮丁は、声と共にとびこんで来て、吉平を高手小手に縛(くゝ)りあげてしまつた。
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次回 → 美童(三)(2025年2月13日(木)18時配信)