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前回はこちら → 大医(だいい)吉平(きつぺい)(四)
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冬をこえて南枝(ナンシ)の梅花(うめ)のほころぶを見ると共に、董家の人々も眉をひらいた。近ごろ主人の董承はすつかり体も本復して、時折後閣の春まだ浅い苑(には)に逍遙する姿などを見かけるやうになつたからである。
「……雁が帰る。燕(つばくろ)が来る。春は歩いてゐるのだ。やがて吉平からも何かいゝ報らせがあらう」
かれの皮膚には艶(つや)が出て来た。眉に希望があらはれてゐる。
(——一服の毒を盛つて、曹操の一命を!)
正月十五日の夜、吉平のさゝやいたことばがたえず耳の底にある。その実現こそ、彼の老いた血にも一脈の熱と若さを覚えさせて来る待望のものだつた。天地の陽気は将(まさ)に大きくうごきつゝあることを彼は特に感じる。
こよひも彼は食後ひとり後苑(コウヱン)へ出て疎梅のうへの宵月(よひづき)を見出してゐた。薫々(クン/\)たる微風が梅樹の林をしのんでくる。——彼の歩みはふと止まつた。
一篇の詩となるやうな点景に出会つたからである。
男と女だつた。
ふたりは恋を語つてゐる。
暗香疎影——ふたつの影もその中のものだし、董承の影と明暗の裡(うち)に佇立(たゝづ)んでゐるので——彼等はすこしも気がつかないらしい。
「……一幅の絵だ」
董承は口のうちで呟きながら、恍惚と遠くから見まもつてゐた。
水々しい春月が、男女の影に薄絹をかけてゐた。男はうしろ向きに——羞恥(はにか)んでゐるのか、うつ向いて爪を嚙んでゐる。
背中あはせに、女はそこらの梅を見てゐた。そのうちに、女から振向いて、何か、男に云ひかけたが、男はいよ/\肩をすぼめ、かすかに顔を横に振つた。
「お嫌(いや)?」
女は、思ひきつたやうに、翻(ひら)——と寄つて覗(のぞ)きこんだ。
その刹那、老人の体のなかにもあつた若い血は、とたんに赫怒となつて、
「不義者めつ」
と、突如な大声が、董承の口を割つて来た。
男女(ふたり)はびつくりして跳びはなれた。もちろん董承のあたまにはもうそれを詩と見てゐることなど許されない。——女性は後閣に住んでゐる彼の秘妾(ヒセフ)であり、男はかれの病室に仕へてゐた慶童子(ケイドウジ)とよぶ小さい奴僕(ヌボク)だつた。
「この小輩め。不、不埒者(ふらちもの)めが!」
董承は逃げる慶童の襟がみをつかんで、さらに大声で彼方へどなつた。
「誰ぞ、杖を持つて来い杖と縄を」
その声に、家臣たちが、馳けつけてくると、董承は、身をふるはして杖で打てといひつけた。
秘妾は百打たれ、慶童は百以上叩かれた。
それでもなほ飽きたらないやうに、董承は、慶童子を木の幹に縛(くゝ)らせた。そして秘妾の身も後閣の一室に監禁させて、
「疲れたから今夜は眠る」
と、ふたりの処分を明日(あした)にして自分の室へかくれてしまつた。
ところが、その夜中、慶童は縄を嚙み切つて逃げてしまつた。
高い石塀を躍りこえると、どこか的(あて)でもあるやうに深夜の闇を跳ぶがごとく馳けてゐた。
「見てゐやがれ、老(おい)ぼれめ」
美童に似あはない不敵な眼を主人の邸(やしき)へふり向けていつた。もとより幼少の時、金で買はれて来た奴隷にすぎないから、主従の義もうすいに違ひないが、生れつき容姿端麗な美童だつたから、董承も身近くおいて可愛がり、家人もみな目をかけてゐた者だつた。
——にも関はらず、慶童は、怨むことだけを怨んだ。その奴隷根性の一念から怖るべき仕返しをこころに企(たく)んで、彼はやがて盲目的に曹操のところへ密訴に馳(かけ)こんでゐた。
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次回 → 美童(二)(2025年2月12日(水)18時配信)
昭和16年(1941)2月12日(水)付の夕刊は、前日(配達日)の2月11日(火)が祝日(紀元節(神武天皇即位日))のため休刊でした。これに伴い、明日の配信はありません。