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前回はこちら → 大医吉平(三)
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……董承がなほ疑はしげに見まはしてゐると、面々は、かれの手を取り沓(くつ)をそろへて、
(今こそ、天の与ふる時節。はや陣頭に立つて、一挙に曹操を討(うち)とり給へ)
と、病室から拉(ラツ)して行つた。
見れば、邸(やしき)の門々には、味方の兵がみちてゐる。董承もそれに励まされて、物具(ものぐ)を着こみ、槍をひツさげ、郎党の寄せる馬上へとび移るや、攻鼓(せめつゞみ)の潮(うしほ)と共に、相府の門へ襲(よ)せかけた。
火を八方から放ち、味方の勇士と共に府内へなだれ入つた。
(逆賊曹操、逃ぐるな)
と、火中に敵を追ひまわし/\て、槍も砕け、剣も火と化するばかり戦ふうち、焔々たる炎のなかに、曹操の影が、ぱつと不動明王のやうに見えた。
(おのれつ、居たかつ)
跳びかゝつて、董承が大剣を加へると、曹操の首は、一炬(イツキヨ)の火の玉となつて、宙へとび上がつた。……あれよと、仰ぐうちにも、焔の首は黒煙をつらぬいて、どこ迄(まで)もどこ迄(まで)も昇天して行き、やがて、その赤きも餘りに遠ざかつて薄れたかと思ふと、白玲瓏(ビヤクレイロウ)たる十五夜の月が、下界を嘲(あざ)笑ふかのやうに満々と雲間に懸(かゝ)つてゐた——
……………………
「……うゝむ。う、う、む」
董承はうなされてゐた。
「国舅々々。いかゞなされた?」
しきりと自分を揺り起してゐた者がある。董承はハツと眠りからさめて、その人を見ると、こよひ客として奥に来てゐた侍医の吉平であつた。
「ああ。……さては、夢?」
遍身(ヘンシン)の汗に、肌着もしとゞに冷えてゐた。
そのひとみは、醒めてまだ落着かないやうに、天井を仰いだり、壁を見まはしてゐた。
「水なとひと口おあがりなされたがよい」
「ありがたう。……噫(あゝ)、あなたぢやつたか、何か、わしは囈言(うはごと)を云うたかの」
「国舅。……」と、吉平は声をひそめて、病人の手をかたく握つた。
「漸くあなたの病根をつきとめました。——あなたの御病気は、あなたの腹中にも爪のさきにも無い。乱脈な世の大患を、ふかくそのお心に煩(わづら)つて、悪熱をやどし、一面には、漢室の衰へに痛恨して、お食もすゝまぬ重態となられたのでござらうが」
「……えつ」
「おかくしあるな、それも病を篤うさせた原因の一つです。日頃からおよそは、察してゐましたが、それほど迄(まで)にお覚悟あつて、君のため三族を捨てゝ、忠義の鬼とならんと遊ばすお心根なら、この吉平もかならずお力添へいたしませう。——いや、あなたの御病気を誓つて癒(なほ)して進ぜませう」
「国手(コクシユ)、なにを申されるか。壁にも耳のある世間、めつたな事を……」
「まだ、それがしをお疑ひか。医は人間の病をなほす事のみが能ではない。真の大医は国の患ひも医すと聞いてゐる。わたくしに、それ程な力はないが、志はあるつもりなのに、意志の薄弱な長袖者(チヤウシウシヤ)と思はれておつゝみあそばさるゝか……」
さう嘆じると、吉平は指を口へ入れて、〔ぶつ〕と喰ひやぶつた。そして、他言せぬという誓ひを、血をもつて示した。
董承は、愕(ガク)として、その面(おもて)を見つめてゐたが、吉平の義心を見きはめると、今はこの人につゝむ理由もないと、一切の秘事をうちあけた後、血詔の衣帯をとり出して示した。
吉平はそれを拝すると、共々、漢朝のために哭(な)いて、やがて威儀を改めて云ふには、
「こゝに大奸曹操を一朝にして殺す妙策があります。しかも兵馬を用ひず、庶民に兵燹(ヘイセン)の苦しみも及ぼさずに行へることですから、わたくしにお任せおき下さるまいか」
「そんな妙計があらうか」
「かれは健康ですが、たゞ一つ頭風(ヅフウ)の持病をもつてゐるので、その持疾が起ると、狂気のごとく骨髄の痛みを訴へます。それに投薬するものは、わたくし以外にありません」
「あつ?……では毒を」
ふたりは、〔ひた〕と口をつぐんだ。その時、室の帳外に、風のないのに、何やら物の気配のうごく気がしたからであつた。
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次回 → 美童(一)(2025年2月10日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。