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前回はこちら → 大医吉平(二)
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吉平はもと洛陽の人で本草(ホンザウ)にくはしく、夙(つと)に仁徳があつて、その風采は神渺(シンベウ)たるものがあり、当代随一の名医といはれてゐた。
迎へに出た董一家の者にむかつて、帝の優渥(イウアク)なる恩命を伝へ、それから静(しづか)に病室へはいつて、董承の容体をつまびらかに診察した。
「ご心配には及びません」
吉平は、慶童子の捧げてゐる薬籠を取つて、八味の神薬を調合(あは)せ、
「これを朝暮にさしあげてください。かならず十日のうちにお元気になりませう」
と、云つて、その日は帰つた。果(はた)して、食慾もつき、容体も日ごとにあらたまつて来た。けれど依然、病床から離れるほどにはならなかつた。
「いかゞですか」
吉平は毎日のやうに来て、かれの脈を診(み)たり、舌苔(ゼツタイ)をのぞいてゐた。
「もうおよろしいでせう。すこし苑(には)でも歩いてみるお気持になりませんか」
「……どうも、まだ」
董承は、仰向いたまゝ、板のやうに薄い自分の胸に、両手を当てながら顔を振つた。
「をかしいですな。……もうどこもお悪くはないはずですが」
「——でも、すこし動くと、まだこゝが」
「お胸がくるしいので?」
「このとほり、何か話しても、すぐ語韻が喘(あえ)いでまゐるのぢや」
「はゝゝ、神経ですよ」と、吉平は笑ひ消したが、実はこの病人に就(つい)ては、初めから、吉平もこゝろのうちで首をかしげてゐた。実際、ひどく衰弱はしてゐるが、単なる老衰でもないし、持病らしい宿痾(シユクア)も見あたらないのである。
「時務のお疲れでせう。何かひどく、心悸(シンキ)を労されたことはありませんか」
「いや閑職の身ぢや。さしたる事も……」
「左様ですかの。何せい、はやく国舅がお癒(なほ)りくださらぬと、陛下の御(ご)軫念(シンネン)もひとかたではございませぬ。きのふも今朝も、御下問がございました」
「…………」
陛下といふことばを聞くと、董承の瞼(まぶた)は涙をためてくる。眦(まなじり)から枕の布へしばし流涕(リウテイ)がやまなかつた。
けふばかりではない。帝の御名が出るといつも彼の眼があやしく曇る。吉平はかれの病根とそれを思ひあはせて、独り何かうなづいてゐた。
およそ一ケ月ばかりの後の正月十五日のことだつた。こよひは上元(ジヤウゲン)の佳節といふので、親族や知己朋友が集まつてゐた。董承も病室でではあるが、吉例として数献(スウコン)の酒をかたむけ、いつかとろ/\と牀(シヤウ)に倚つて眠つてしまつた。
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……と。彼を取りかこんで、口々に云ひ逸(はや)る人々がある。
(国舅々々。かねてのこと、成就の時は来ましたぞ。荊州の劉表、河北の袁紹とむすび、五十万の軍勢をおこす。また西涼の馬騰、幷州の韓遂、徐州の玄徳なんども、各地から心をあはせて一せいに起ち、その兵七十万と聞えわたる。——曹操その故におどろき慌てゝ諸方へ討手をわかち、為に、洛内は今、まつたく手薄となりました。相府、都市の警兵をあはせても、千人に足りますまい。——時しもこよひは上元の佳節、相府でも宴をひらいて乱酔してをること必せりです。いでや直(すぐ)さまお越しあれ、一味のものは早、馬を寄せて、門前にお待ちまうしてをりますぞ)
——誰かと見まはせば、血詔(ケツセウ)を奉じて、密盟に名をつらねてゐる一味の王子服(ワウジフク)、种輯(チウシウ)、呉碩(ゴセキ)、呉子蘭などの人々だつた。
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次回 → 大医吉平(四)(2025年2月8日(土)18時配信)