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さういふ風に、荀彧の言には、曹操もよく従つた。
曹操が今日の成功ををさめ得た重大な機略の根本は、何といつても朝廷の危急に際して、献帝のお身を逸(イチ)早くこの許都へ奉迎したことにあるが——それも荀彧が最初から、
「主上を奉じて人望に従ふ大順こそ、あなたの運命をひらく大道でもあります。他人に先んじられぬうちに早く御決行なさい」
と、切にすゝめた大策であつたのである。
当時、他の諸将軍が、洛陽の離散から長安の大乱と果(はて)なき兵燹乱麻(ヘイセンランマ)のなかに、たゞおたがひの攻伐にばかり日を暮し合つてゐた際に——ひとりそこへ着眼した若き荀文若(ジユンブンジヤク)——荀彧の達見はさすがのものであつた。
袁紹の謀臣、沮授なども、同じ先見を抱いて、袁紹にその計をすすめた事もあるが、袁紹の優柔不断な性格がぐづ/\してゐるまに、機を逸して曹操に先(セン)を越されてしまひ、歴代漢朝の名門でありながら、その強大な勢力も今では地方的な存在に置き更(か)へられてしまつたのである。
荀彧は、内治の策にも、着々と功績をあげて来た。
許都を中心に、屯田策を採用し、地方の良民のうへに、さらに人望のある戸長を用ひ、各州郡に田官といふものをおいて、その単位を組織し善導し、大いに農耕を奨励したりしたので、一面、戦乱のなかにありながら、産業は振興して、五穀の増産額だけでも年々百万石を超えてゆくといふ活況であつた。
このやうに、今、許都は軍事経済の両面とも、盛大に向つてゐた。
けれど首府の殷賑(インシン)がそのまゝ朝廷の盛大をあらはすものとは云へなかつた。——許都の旺(さかん)なるは、曹操の旺なるを示すだけに止(とゞ)まるものであつて、極端な武権政治が相府といふかたちでこゝに儼存し、朝廷の勢威も存立もかへつて日ごとに薄れて来たかのごとく誰の眼にも見えて来た。
——茲(こゝ)に。
その推移をながめながら、怏々と、ひと知れず心を苦しめてゐたひとは、かの国舅と称(よ)ばるゝ車騎将軍——董承(とうじよう)であつた。
功臣閣の秘宮を閉ぢて、帝御みづからの血をもつて書かれた秘勅をうけてから日夜、肝胆をくだいて、
「いかにして、曹操をころすべきか。何(ど)うしたら武家専横の相府をのぞいて、王政をいにしえに回復できようか」
と、寝食もわすれて、そればかりに腐心してゐたが、月日はいたづらに過ぎ、頼みにしてゐた玄徳も都を去つてしまふし、馬騰も西涼へ帰つてしまつた。
その後、一味の王子服などゝも、ひそかに密会はかさねてゐるが、何分にも実力がまるで無かつた。公卿(くげ)の一部でも、相府の武権派に対して、明(あきら)かに反感をいだいてゐるし、曹操の驕慢独歩な宮門の出入振りをながめるにつけ、無念の思ひを秘めてゐる朝臣はかなりあつたが、
「ぜひもない時勢」
と、無気力なあきらめの中に自分を隠しておくことを、みな保身の術として口をむすんでゐた。
董承は、さういふうちに、病にかゝつて、日ましに容体も重り、近頃は、まつたく自邸に病臥してゐた。
帝は、かれの病の篤い由を聞かれると、ひと事ならずお胸をいためられて、さつそく典薬寮の大医、吉平(キツペイ)といふものに命ぜられて、かれの病を勅問された。
吉平は、みことのりを奉じて、さつそく董承のやしきへ赴いた。有難いお沙汰に、一門の者共、出迎へに立つたが、その時、吉平のまへに進んで、薬籠を捧げ持つたのは、董家の召使の慶童(ケイドウ)という小姓であつた。
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次回 → 大医吉平(三)(2025年2月7日(金)18時配信)