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そのむかし、まだ洛陽の一皇宮警吏にすぎなかつた頃、曹操といふ白面の青年から、おれの将来を卜(ボク)してくれといはれて、
「おまへは治世の能臣だが、また乱世の奸雄だ」
と豫言したのは、洛陽の名士許子将(キヨシシヤウ)といふ人相(ニンサウ)観(み)だつた。
怒るかと思ひのほか、その時、曹操といふ素寒貧の一青年は、
「奸雄、結構々々」
と、歓んで立(たち)去つたといはれてゐる。
子将の豫言は中(あた)つてゐた。
しかし今日の曹操が在ることを誰が風雲のあひだに豫見してゐたらう。歳月は長しといへどもまだそれから今日までわづか十数年の星霜しか過ぎてゐないのである。
或は、曹操自身でさへ、かう早く天下の相貌が変つて、現在のやうな位置になろうとは思ひのほかであつたかもしれない。
年といへば、まだ男ざかりの四十臺で覇心いよ/\勃々たるものがある。
彼をして、かくも迅速に、今日の大を成さしめたものはもちろん彼自身の素質だが、それを扶けたのは彼を繞(めぐ)つて雲のごとく起つた謀士良将の一群であり、とりわけ荀彧のやうな良臣の功も見のがせない。
荀彧は常にかれの側にゐて、実によく善言を呈してゐる。いまの彼は曹操の片腕ともいふべき存在であつた。
その荀彧はではどんなに老成した人物かといふと、曹操より七ツも年下で、まだ三十〔だい〕の人物だつた。
潁州の産れで家柄はよく、後漢の名家の一つで、傑士荀淑(ジユンシユク)の孫にあたつてゐる。
名家の子や孫に、英俊はすくないが、荀彧はまだ学生の頃からその師何顒(カギヨウ)に、
「王佐の才である」
と、歓称されてゐた。
王佐の才とは、王道の輔佐たるに足る大政治家の質があるといふことである。乱世にはめづらしい存在といはねばならぬ。
だから河北の袁紹なども、曽(かつ)ては、上賓の礼を執つて、かれを迎へようとしたが、荀彧はいちど曹操と会つてから、たちまち肝胆相照らして、曹操の麾下へ進んで加はつたものであつた。
曹操には、やはりそれだけの魅力があつた。曹操の長所のうちで最も大きな長所は有為な人物を容れるその魅力と抱擁力である。
かれも亦(また)、よく士を愛し、とりわけ荀彧に対してなどは、
「君は予の張良である」
とさへ云つて歓んだ。張良といへば、漢の高祖の参謀総長に位する重臣である。——このことばの裏を窺ふと、ひそかに自分を漢の高祖に擬してゐるなど、かれの腹中には、なほ/\底知れないものが蔵されてゐる。
——であるからして、奇舌学人の禰衡が死んだ事などは、かれの眼から見れば、まつたく鴉が焼け死んだぐらゐな一笑話に過ぎなかつたのもあたりまへである。
さはいえ、又。
かりそめにも曹操の使として立てた一国の使者であるものを、荊州の地で、しかも劉表の一部下が手にかけて殺したといふことは、重大な国際問題として取上げる材料になる。
「このまゝには捨ておきがたい。彼を討つよい口実でもある」
曹操はこの際、一気に大軍を向けて、荊州を奪らうかと議した。
諸将も、奮ひたつたが、荀彧は賛成しなかつた。その理由は、
「袁紹との戦(いくさ)も、まだ片づいてゐませんし、徐州にはなほ玄徳が健在です。それを半途に、また、東方に軍事を起すのは、心腹の病をあとにして、手足の瘡を先にするやうなものでせう。——まづ病の根本たる袁紹から征伐し、つぎに玄徳をのぞき、江漢の荊州などはそれからにしても遅くはありません」
といふのであつた。
かれの言に従つて、曹操は、荊州への出軍を、一時思ひとゞまつた。
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次回 → 大医吉平(二)(2025年2月6日(木)18時配信)