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江夏の使(つかひ)は、顚末(テンマツ)を仔細にかう語りだした。——
その話によると。
禰衡(ネイカウ)は江夏へ行つてからも相変らずで、人もなげに振舞つてゐたが、或(ある)時、城主の黄祖が、彼が欠伸(あくび)してゐるのを見て、
「学人。そんなに退屈か」
と、皮肉に訊ねた。
禰衡は、打(うち)うなづいて、
「何しろ話し対手(あひて)といふものがないからな」
「城内には、それがしも居り、多くの将兵もゐるのに、何でまた」
「ところが一人として、語るに足る者はをらん。都は蛆虫(うじむし)の壺だし、荊州は蠅の〔かたまり〕だし、江夏は蟻の穴みたいなものだ」
「するとそれがしも」
「そんなもんぢやろ。何しても退屈至極だ。蝶々や鳥と語つてゐるしかない」
「君子は退屈を知らずとか聞いてをるが」
「噓を云へ。退屈を知らん奴は、神経衰弱にかゝつてをる證拠だ。ほんたうに健康なら退屈を感じるのが自然である」
「では一夕(イツセキ)、宴をまうけて、学人の退屈をおなぐさめいたさう」
「酒宴は真平(まつぴら)だ。貴公等の眼や口には、酒池肉林が馳走に見えるか知らんが、わしの眼から見るとまるで芥溜(ごみため)を囲んで野犬が躁(さは)いでゐるやうな気がする。そんな所へすゑられて、わしを肴(さかな)に飲まれて堪(たま)るものか」
「否、否。……けふはそんな儀式張らないで二人きりで飲(や)りませう。あとでお越し下さい」
黄祖は去つたが、しばらくすると、小姓の一童子をよこして、禰衡を誘つた。
行つてみると、城の南苑に、一枚の莚(むしろ)と一壺(イツコ)の酒をおいたきりで、黄祖は待つてゐた。
「これはいゝ」
口の悪い禰衡も初めて気に入つたらしく、莚の上に坐つた。
側には、一幹の巨松が、大江の風をうけて、颯々(サツ/\)と天声の詩を奏でゝゐた。壺酒はたちまち空になつて、又一壺、又一壺と童子に運ばせた。
「学人に問ふが——」
と、黄祖もだいぶ酩酊して、唇をなめあげながら云ひ出した。
「学人には——だいぶ長いこと、都に居つたさうだが、都では今、誰と誰とを、真の英雄と思はれるな?」
禰衡は、言下に、
「大人(おとな)では孔文挙(コウブンキヨ)、小児(こども)なら楊徳祖(ヤウトクソ)」
と、答へた。
黄祖は、すこし巻舌で、
「ぢやあ、吾輩はどうだ。この黄祖は」
と、片肱(かたひじ)を張つて、自分を前へ押(おし)出した。
禰衡はから/\と笑つて、
「君か。君はまあ、辻堂の中の神様だらう」
「辻堂の神様?それは一体どういふわけだ」
「土民の祭をうけても、なんの霊験もないといふことさ」
「なにツ。もう一遍云ツてみろ」
「あはゝゝ。怒つたのか。——お供物(くもつ)泥棒の木偶(でく)人形が」
「うぬつ」
黄祖は赫(カツ)として剣を抜くやいなや、禰衡を真二つに斬り下げて、その満身へ、返り血をあびながら発狂したやうに呶(ど)鳴(な)つてゐたといふことである。
「片づけろ/\。この死体をはやく埋めてしまへ。此奴(こやつ)は死んでもまだ口をうごかしてゐる!」
——以上。
ありのまゝな顚末を聞いて、劉表も哀れを催したか、その後、家臣をやつて禰衡の屍(かばね)を移し、鸚鵡洲の河畔にあつく葬らせた。
禰衡の死はまた、必然的に、曹操と劉表との外交交渉の方にも、絶息を告げた。
曹操は、禰衡の死を聞いた時、かういつて苦笑したさうである。
「さうか、たうとう彼も自分の舌剣で自分を刺し殺してしまつたか。彼のみではない。学問に慢じて智者ぶる人間にはまゝある例だ。——さういふ意味で彼の死も、鴉(からす)が焼け死んだぐらゐな意味はある」
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次回 → 大医(だいい)吉平(きつぺい)(一)(2025年2月5日(水)18時配信)