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「なに。漢朝の臣だと。——われわれもみな漢朝の臣だ。貴様ひとりが、なんで漢朝の臣か」
「さうだ、漢朝の臣は、こゝにはわしひとりしか居ない。おまへ方はみな曹操の臣だらう」
「どつちでも同じこつた」
「噓をいへ、盲(めくら)共め」
「盲だと」
「あゝ暗い/\、このとほり世の中は真暗だ。——聞けよ、蛆虫たち、この禰衡だけは、汝らとちがつて、反逆者の臣ではないぞ」
「反逆者とは誰のことをいふか」
「もちろん曹操のことである。この禰衡をさして、首のない狂鬼だなどゝおまへ方はいふが、反逆者に与(くみ)するおまへ方の首こそ明日をも知れないものだ」
禰衡と荀彧の問答を、その周りで聞いてゐた他の部将たちは、いよ/\憤つて、
「荀彧!なぜそいつを鞍から引(ひき)ずり下ろしてしまはないのだ。おれたちの前へ抛(ほう)つてくれ。膾(なます)斬りに叩ツ斬つてくれるから」
と戟や剣を犇(ひし)めかした。
荀彧も、殺意と疳癪(カンシヤク)が、一緒に〔こみあげ〕て、ひとの手を待つまでもなく、たゞ一太刀にと思つたが、曹操でさへ堪忍して使者に用ひたものを、みだりにこゝで殺しては——と、じつと怺(こら)へて、
「いや待て/\。丞相もさきほど仰せられた。こいつは鼠のごときものだと。鼠を斬つたら、おれたちの刀の穢(けが)れだ。まあ、鎮まれ鎮まれ」
禰衡は聞くと、馬の上から左右の大将たちを、キラ/\眺めまはして、
「たうとうわしを鼠にしをつたな。だが、鼠にはなほ人に近い性がある。気の毒だが、おまへ方はまづ糞虫(くそむし)だ。糞壺(フンコ)にうごめく蛆虫としか云へん」
「な、なにをツ」
戟戞(ゲキカツ)して、つめよる諸将を、荀彧はやつと押し隔てゝ、
「まあ、云はしておけ、正気ぢやない。いづれ荊州に行つて〔しくじ〕るか、能もなく立(たち)帰つて、大恥をさらすか、どつちにしろそれまで胴の上に乗ツかつてゐる彼奴(きやつ)の首にすぎん。あはゝゝ、むしろ嗤(わら)へ嗤へ」
諸将から兵隊まで、こぞつて嘲り嗤ふなかを、禰衡は通つて、禁門の外へのがれた。
或(あるい)は、そのまゝ家へ帰つて、逃げかくれてしまひはせぬかと、二、三の兵があとを尾(つ)けて行つたが、さうでもなく、驢背(ロハイ)の姿は、急ぎもせず、怠りもせず、黙々と、荊州の方角へ向つて行つた。
日ならずして、禰衡は、荊州の府に着いた。
劉表は、旧知なのでさつそく会ふことは会つたが、内心、
(うるさい奴が来たものだ)
と、いふ顔つきである。
禰衡の怪舌は、こゝでも控目(ひかへめ)になどしてゐないから、使者の格で来た手前、大いに劉表の徳を称しはしたが、一面またすぐ毒舌のはうで相殺してしまふから何にもならなかつた。
劉表はこゝろに彼を嫌ひ、うるさがつてゐたので、態(テイ)よく、江夏の城へ向けてしまつた。
江夏には、臣下の黄祖が守つてゐる。黄祖と禰衡とは、以前、交際があつたので、
「彼も会ひたがつて居るし、江夏は風景もよく、酒もうまいから、数日遊んでおいでなさい」
と、態よく追(おひ)払つたのである。
その後で、或(ある)人が、劉表に向つて、不審をたゞした。
「禰衡の滞城中、おそばで伺つてをると、実に無遠慮な——といふよりも言語道断な奇舌をもてあそんで、あなたを罵り辱めてをつたが、なぜあなたは彼を殺しもせず、江夏へやつてしまつたのですか」
劉表は笑つて答へた。
「曹操さへ忍んで殺さなかつたのは、理由のあることに違ひない。曹操の考へは、この劉表の手で、彼を殺させようとして、使者によこしたものだらう。もし自分が禰衡を殺したら、曹操はさつそく天下に向つて、荊州の劉表は、学識ある賢人を殺したりと、悪(あ)しざまに吹聴(ふゐちやう)するに極(きま)つてゐる。——誰がそんな策(て)にのるものではない。曹操も喰へない漢(をとこ)だからな。はゝゝゝゝ」
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次回 → 鸚鵡洲(おうむしう)(一)(2025年2月1日(土)18時配信)