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「むゝ。劉表とは多年、交(まじは)りがあるが——」
と、禰衡が鼻さきで答へると、
「しからば、予のために、すぐ荊州へ下つて、使ひをせい」
と、いふ曹操の命であつた。
いま彼の命令とあれば、宮中でも相府でも、行はれないことはなかつたが、禰衡は、首を横に振つた。
「いやだ」
「なぜ、いやか」
「おほかた用向(ようむき)は分つてをるから、わしの任ではないと思ふだけだ」
「予がまだ何もいはぬのに、使命は推察がつくといふか」
「荊州の劉表を説いて、あなたの門に駒をつながせたら、あなたは忽ち御機嫌がよくなるだらう」
「その通りだ。劉表に会つてよく利害を説き、この曹操に降(カウ)を誓はせて帰つたら——汝を宮中の学府に入れ、公卿として重く用ひてつかはすが、どうだな」
「はゝゝ、鼠が衣冠したら、さぞ滑稽であらう」
「予は、汝の一命を、汝に貸し与へておくものである。否も応も云はさん。すぐ出立せい」
曹操は、武官を顧みて、
「この者に、良い馬をとらせ、華華しく、酒肴を調(とゝの)へて、門出の餞別(はなむけ)をしてつかはせ」
と、いひつけた。
人々は、禰衡をかこんで、〔わざ〕と口々に囃(はや)したて、また、杯をあげて、彼にもしたゝかに飲ませた。
そして東門廊まで大勢で送り出し、馬を引寄せて、鞍の上まで手伝つて押上げた。
曹操はまた下知して、
「予の命をおびて出立する大使のために、一同、東門の外に整列して、見送りをいたせ」
と、云つた。
さつき禰衡が、名声ある学者に対して、礼遇をしないといふ点をあげて罵つてゐたから、曹操は、さつそく彼の意を迎へて、この使者を有効に用ひてやらうとする考へになつてゐたに違ひない。しかし、それと分りきつてゐても、文武の諸官は、心外な様子を示して、
「あんな気の〔ふれた〕乞食儒者に、厳かな列送の礼が執れるものか」
と、誰ひとり真面目に立つ者はゐなかつた。
殊(こと)に、荀彧などは、ぷん/\怒(いか)りながら、部下の兵に向つて、公然と、
「禰衡がこゝへ出て来ても、立つて送る必要はないぞ。みんな坐つてゐてよろしい。〔あぐら〕を組んで、あいつが否応(いやおう)なく立つてゆく泣ツ面を見送つてやれ」
と、云つて憚(はゞか)らなかつた。
馬に乗せられた禰衡は、やがて馬の歩むまゝに、壮大なる東華門のうちから〔のこ〕/\出て来た。
馬も使者も、しよぼ/\としてゐたが、内では歓送の声と、旺(さかん)な音楽がどよめいてゐた。門を出て見ると、荀彧の隊に倣(なら)つて、どの兵隊も大将も〔あぐら〕を組んでうらゝかに坐りこんでゐる。
「……噫(あゝ)、悲しい」
禰衡は、馬をとめて、さう咳いてゐたが、忽ち声をはなつて哭(な)きだした。
日向(ひなた)の兵隊も日陰の兵隊もみなゲラ/\笑ひ出した。荀彧は心地よげに、禰衡を見て揶揄(からか)つた。
「先生。——晴の首途(かどで)に、何をそんなに泣くのでござるか」
すると禰衡は言下に答へた。
「見まはせば、数千の輩(やから)が、みな腰をぬかして、立つことを知らない。さながら死人の原だ。死人の原や死人の山のなかを行く。これが悲しくなくて何(ど)うしよう」
「われわれを死人だと。あははは、さういふ貴様こそ、おれたちの眼から見れば、首のない狂鬼だぞ」
「いや、いや。わしは漢朝の臣だよ……」
禰衡の返辞は、まるで見当ちがひである。何をまた云ひ出さうとするのか、荀彧は面喰らつたかたちで、眼をしばたゝいた。
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次回 → 雷鼓(四)(2025年1月31日(金)18時配信)