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曹操は遂に、激して云つた。
「これ、腐れ学者。——汝は口をあけば常に自分のみを清白のやうに云ひ、人を見ればかならず、汚濁のやうに誹(そし)るが、どこにそんな濁つた者がゐるか」
禰衡も、負けずに云ふ。
「腐(くさ)もの身知らずである。——丞相には、自分の汚濁がお分りにならないとみえる」
「なに。予を濁れるものというか」
「然(しか)り。——あなたは賢さうに構へてゐるが、その眼はひとの賢愚をすら識別(みわけ)がつかない。眼(まなこ)の濁つてゐる証拠である」
「……申したな。おのれ」
「また、詩書を読んで心を浄化することも知らない。語は心を吐くと曰(ふ)。あなたの口の濁つてゐるのは、高潔な修養をしてゐない證拠だ」
「……うウむ」
「ひとの忠言を聞かない、これを耳の濁りといふ。古今に通ぜぬくせに、我意ばかり猛々しい。これを情操の濁りと申す。日々坐臥の行状は、一として潔(きよら)かなるなく、一として放恣(ハウシ)ならざるはない。これ肉体の濁りである」
「……」
「さらに、その諸濁の心は、誰ひとり頭の抑へ手もない儘(まゝ)に、いつとなく思ひあがつて、遂には、反逆の心芽を育て、行く/\は、身みづからの荊棘(ケイキヨク)を作るにいたる。——愚(おろか)しきかな。笑ふべき哉(かな)」
「……」
「われ禰衡は、天下の名士であるものを、おん身は、礼遇もしないばかりか、鼓を打たせて辱めようとされた。まことに小人の沙汰である。むかし陽貨(ヤウクワ)が孔子をうらんで害を加へんとしたり、蔵倉(ザウソウ)などといふ輩(やから)が孟子に向つて唾(つば)を吐いた〔しぐさ〕にも似てをる。おん身の内心には、人もなげなる覇道の遂行を思ひながら、行ふ事といつたら、かくの如き小心翼々たるものだ。小心にして鬼面(キメン)人を脅(おど)すもの、是(これ)を、匹夫といふ。——実(げ)にも稀代の匹夫が玉殿にあらはれたものだ。時の丞相曹操!あゝ偉大だ!偉大な匹夫だ!」
手をたゝいて慢罵嘲笑する彼の容子は、それこそ、偉大な狂人か、生命(いのち)知らずの馬鹿者か、それとも、天が人をして云はしめるため、こゝへ降した大賢か——とにかく推し量れないものがあつた。
曹操の面は、蒼白になつてゐる。否、殿上はまつたく禰衡一人のために気をのまれてしまつたかたちで、この結果が、どんな事になるかと、人事ながら文武の百官は唾をのみ歯の根を嚙んで、悽愴な沈黙をまもりあつてゐた。
孔融は心のうちで、今にも曹操が、禰衡を殺害してしまひはせぬかと——眼をふさいで、はら/\してゐた。
その耳には、やがて満座の諸大将が、剣をたゝき、眦(まなぢり)をあげて、
「舌長な〔くされ〕学者め。云はしておけば野放図もない悪口雑言。四肢十指をばら/\に斬りさいなんで目にものをみせてくれる」
騒然、立ちあがる気配が聞えた。——孔融はハツと眼をみひらゐたが、とたんに満身の毛穴から汗がながれた。
曹操も立ちあがつてゐたからである。——が、曹操は、剣をつかんで雪崩(なだ)れ行かうとする諸大将のまへに両手をひろげて、かう叫んでゐた。
「ならん、誰が禰衡を殺せと命じたか。——予を偉大な匹夫と云つたのは、当らずといへども遠からずで、さう怒り立つ値打はない。しかも、この腐儒などは、鼠のごときもので、太陽、大地、大勢を知らず、町にゐては屋根裏や床下でひとり小理窟をこね、誤つて殿上に舞ひこんでも、奇矯な動作しか知らない日陰の小動物だ。斬り殺したところで何の益にもならん。それよりは予が、彼に命じることがある」
一同を制した後、曹操は、あらためて禰衡を舞台から呼びよせ、衣服を与へて、
「荊州の劉表と交(まじは)りがあるか」
と、たづねた。
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次回 → 雷鼓(三)(2025年1月30日(木)18時配信)