ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 奇舌学人(三)
***************************************
禰衡は、聞くと忽ち、腹をかゝへて傍若無人に打笑つた。
「さて/\、丞相もよい気なもの哉。——わが観る眼とは、大きに違ふ」
「臣を観ること君に如かず——と云ふに、この曹操が麾下に対してさる眼ちがひては大事を誤らう。学人、忌憚なく、汝の評を云つてみよ」
「では、わしが遠慮なく、列座の面々を月旦するが、気を腐らしたまふなよ。——まづ、荀彧には病を問はせ、喪家(もか)の柩(ひつぎ)を弔はしむべし。荀攸(ジユンシウ)には、墓を掃かせ、程昱には門の番をさせるがいゝ。郭嘉には、文を書かせ詩でも作らせておけば足る。張遼には、鼓(つゞみ)の皮でも張らせ、鉦(かね)をたゝかせたら上手かも知れん。許褚には、牛馬や豚を飼はせておけばよくやるだらう。李典は、書簡を持たせて、使奴につかえば似合ふ。満寵には、酒糟(さけかす)でも喰らはせておき、酒樽のタガを叩かせておくとちやうどいゝ。徐晃は、狗ころしに適任だ。于禁は、背に板を負はせて、墻を築かせればよく似合ふし、夏侯惇は片目だから眼医者の薬籠でも持たせたら恰好(カツカウ)な薬持(くすりもち)になれるだらうに。——その他の者どもに至つては、いち/\云ふ煩(わづら)はしいが、衣を着るゆゑに衣桁(イカウ)の如く、飯をくらふ故(ゆゑ)に飯ぶくろの如く、酒を飲むゆゑ酒桶の如く、肉をくらふが故(ゆゑ)に肉ぶくろに似たるのみだ。時に、手足をうごかし、時に口より音を発するからとて、人間なりとは申されん。蟷螂(タウラウ)も手足を振舞ひ蚯蚓(みみず)も音(ね)を発しる。——丞相のおん眼は〔ふし〕穴か、これがみな人間に見えるとは。——噫(あゝ)、可笑(をか)しい、あゝをかしい」
ひとり手を打つて笑ふ者は禰衡だけで、あまりな豪語と悪〔たい〕に、満堂激色をしづめて寂としてしまつた。
さすがの曹操も、心中ひどく怒りを燃やしてゐた。あらかじめ、奇舌縦横の野人と、断りつきを承知で招ゐたので、何(ど)うしようもなかつたが、にが虫を嚙みつぶしたやうな面持(おももち)で、
「学人。さらばそちに問ふが、そち自身は、抑(そも)、なんの能があるかつ」
と、憤然、高いところから声をあらゝげて質問した。
禰衡は、にんやりと唇を大きくむすんで、傲慢不遜な鼻の穴を、すこし仰向けながら、鼻腔で息をした後、
「——天文地理の書、一として通ぜずといふことなく、五流三教の事、暁(さと)らずといふことなし。そのことばは、かくいふ禰衡を称するため出来てゐるやうなものだ。……いや、まだ云ひ足らん。上はもつて君を堯(ゲウ)舜(シユン)にいたすべく、下はもつて徳を孔顔に配すべし。……ちと難しいな。わかるまい。もつとくだけて云はうならば、胸中には、国を治め、民を安んずる経綸がいつぱいで、ほかに私慾を容(い)れる餘地もないくらゐだといふのだ。かういふ器をこそ、ほんとの人間といふので、そこらの糞ぶくろとひとつに観られては迷惑する」
すると、突然、列座のなかほどで、剣環が鳴つたと思ふと、
「云はしておけば、云ひたい放題な悪口を。——うぬつ、舌長な腐れ学者め!うごくなつ」と、呶(ど)鳴(な)りながら、起ちあがつた者がある。
見れば、さきほどから穏やかでない眉をして、凝(じつ)と怺(こら)へてゐた張遼が、遂に、堪忍ぶくろを切つて剣のつかへ手をかけ、あはや跳びかゝつて、禰衡を斬ツてしまはうとする形相であつた。
「待てつ」
曹操は、鋭く押しとゞめて、且(かつ)、語をあらためて、列臣へ告げわたした。
「いま、禁裡(キンリ)の楽寮に、鼓(つゞみ)を打つ吏員を缺(か)いてをると聞く。——近日、朝賀の御酒宴が殿上で行はれるから、その折、禰衡をもちひて鼓を打たさうではないか。——いかに学人、行くとして可ならざるなきそちの才能とあれば、鼓も打てよう。異存はあるまいな」
彼を困らしてやらうといふ曹操の考へであることは分りきつてゐる。だが、禰衡は敢て辞さなかつた。むしろ得意げに、
「なに、鼓か。よろしい」
と、ひきうけて、その日は、悠々と退いた。
**************************************
次回 → 雷鼓(らいこ)(一)(2025年1月28日(火)18時配信)