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前回はこちら → 奇舌学人(二)
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荊州(湖北省・江陵・揚子江の流域)の劉表は、諸国に割拠する群雄のうちでも、たしかに群を抜いた一方の雄藩であつた。
第一には、江岸の肥沃な地にめぐまれてゐたし、兵馬は強大だし曽(かつ)ては江東の孫策の父孫堅すら、その領土へ侵入しては、惨敗の果その身も戦死を遂げ、恨み多き哀碑(アイヒ)を建てゝ、いたづらに彼を誇らせたほどな地である。
——で、当然のやうに。
曹操から派遣された誘降の使者は、劉表の一笑に会つて、まるで対手(あひて)にもされず追ひ返されてしまつたのである。
その経過を聞いて、張繡は、曹操に随身した手初めの働きにと、
「自分から劉表へ、書簡をしたゝめませう。わたくしと彼とは、多年の交はりですから」
と、申し出た。
彼は、書簡のうちに、天下の趨勢やら、利害やら細々書いて、公私の両面から、説破を筆に尽したが、なほ念の為(た)めに、
「たれか、辯舌の士が、これを携へて行けば、かならず功を奏すかと思ひますが」
と、云ひ添へて、曹操の手元へさし出した。
「誰か、然(しか)るべき説客はないだらうか」
曹操がたづねると、侍臣のうちから孔融が答へた。
「わたくしの知る範囲では、平原の禰衡(ネイカウ)しかありません。禰衡ならば、荊州に使(つかひ)しても、先に怯(ひる)まず丞相のお名も辱しめまいと思はれますが」
と、推薦した。
「禰衡とは、いかなる人物か」
「わたくしの邸の近所に住んでゐるものであります。才学たかく、奇舌縦横ですが、生れつき狷介で舌鋒人を刺し、諷言(フウゲン)飄逸(ヒヨウイツ)、おまけに、貧乏ときてゐますから、誰も近づきません。——しかし、劉表とは、書生時代から交りがあつて今でも文通はしてをるらしいやうです」
「それは適任だ」
すぐ召(めし)呼べとあつて、相府から使(つかひ)が走つた。
平原の禰衡、字は正平。迎へをうけて、ふだん着の垢(あか)臭い衣服のまゝ、飄々乎(ヒヨウ/\コ)としてやつてきたが曹操以下の並居る閣のまん中に立つと、無遠慮に見廻して、
「あゝ、人間がゐない、人間がゐない。天地の間は、こんなに澗(ひろ)いのに、どうして人間は、かうゐないのだらう!」
と、大声を発して云つた。
曹操は聞きとがめて、
「禰衡とやら、なんで人間がゐないといふか、天地間はおろか、この閣中に於てすら、多士済々たる予の麾下の士が眼に見えぬか」
と、彼も、大音で云つた。
禰衡は、かさ/\と、枯葉のやうに笑つて、
「はゝあ、そんなに居りましたかな。願はくば、どう多士済々か、どう人間らしいのが居るか、つまびらかに、その才能をうかゞひたいものだが」
と、何のおそれ気もなく云ひ放つた。
かねて、奇辯畸行の学者と、その性情を聞いてゐる上なので、曹操も別に咎めもせず、また驚きもせず、
「おもしろい奴、然(しか)らば右列の者から順に教へてやるから、よく眼に観、耳に聞いて覚えておくがよい——まづそれにをる荀彧、荀攸(ジユンシウ)はみな智謀ふかく、用兵に達し、いにしへの蕭何(シヤウカ)とか、陳平(チンヘイ)などゝいふ武将も遠く及ばん人材である。また次なる張遼、許褚、李典、楽進の輩(ともがら)は、勇においてすぐれ、その勇や万夫不当、みな千軍万馬往来の士である。なほ見よ。左列の于禁、徐晃のふたりは、古の岑彰(シンホウ)、馬武(バブ)にも勝る器量をそなへ、夏侯惇は、軍中第一の奇才たり。曹子孝(サウシカウ)は、平常治策の良能、世間の副将といふべきか。——どうだ、学人。これでも人なしといふか」
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次回 → 奇舌学人(四)(2025年1月27日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。