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劉岱(りゆうたい)、王忠は、やがて許都へたち還ると、すぐ曹操にまみえて、かう伏答(フクタフ)した。
「玄徳には何の野心もありません。ひたすら朝廷をうやまひ、丞相にも服してをります。のみならず土地の民望は篤く、よく将士を用ひ、敵のわれ/\に対してすら徳を垂れることを忘れません。まことに人傑といふべきで、あゝいふ器(うつは)を好んで敵へ追ひやるといふのも甚だ策を得たものではあるまいと存じまして」
皆まで聞かないうちに、曹操の眉端(ビタン)はピンと刎(は)ね上がつてゐた。烈火の如き怒りをふくんだ気色である。
「だまれ、汝等は曹操の臣か玄徳の臣か。予の丞相旗をかゝげ、わが将士を率ゐ、何のために徐州へ赴ゐたか」
彼はまた左右の武将をかへりみて云つた。かくの如く、他国に征して、他国にわが名を辱しめた不届者は、諸人の見せしめ、各営門を曳き廻した上、死罪にせよ、と厳命した。
すると、かたはらに在つた孔融が、彼の怒気をなだめて云つた。
「もと/\劉岱、王忠の輩(ともがら)は、玄徳の対手(あひて)ではありません。それは丞相もあらかじめお感じになつてゐた事かと拝察いたします。然(しか)るを今、その結果を両名の罪にばかり帰して、これを死罪になし給へば、却(かへ)つて諸人の胸に丞相の御不明を呼び起し、同じ主君に仕へる者共は、ひそかに安き思ひを抱かないでせう。これは、人心を得る道ではありません」
孔融のことばが終る頃には、曹操の顔いろも常に返つてゐた——実(げ)にもと、うなづいて、二人の死罪はゆるす代りに、その官爵を取(とり)あげて、身の処置は、後日の沙汰と云ひ渡した。
その後、日をあらためて、曹操は自身大軍をひきゐて、徐州へ攻(せめ)下らんと議したが、孔融は又、彼に自重をすゝめた。
「今、極寒の冬の末に向つて、みだりに兵を動かすのも如何(いかゞ)なものでせうか。来春を待つて御発向あるも遅くはありますまい。その間になすべき事がないではありません。まづ外交内結、国内を固めておくべきでせう。愚臣の観るところでは、荊州の劉表と、襄城(ジヤウジヤウ)の張繡とは、ひそかに聯携して、敢て、朝廷にさへ不遜な態度を示してゐます。——いま丞相が使臣をそれへ遣はされて、その不平を慰撫し、その欲するものを与へ、その誇るものを煽賞(センシヤウ)し、一時、虫をこらへて、礼を厚うしてお迎へあらば、彼等はかならず来つて丞相の麾下に合流しませう。——すでに荊州、襄城のふたつを、丞相の勢力下に加へておしまひになれば、天下、ひゞきに応ずるごとく、諸諸の群雄も、風に靡(なび)いて来るにちがひありません」
「その経策は、予の意志とよく合致する。さつそく、人を遣(や)らう」
そこで、襄城(漢口ヨリ漢水方面ヘ二八キロ)の張繡へは、曹操の代理として、劉曄(リウエフ)が使に立つた。
襄城第一の謀士賈詡は、曹操の使を迎へて、心中大いに祝しながら、来意を問ふと、劉曄は、
「当今、乱麻の世にあたつて、その仁、その勇、その徳、その信、その策、真に漢の高祖のやうな英傑を求めたなら、わが主君、曹操を措いてはほ他にあらうとも思はれません。あなたは湖北に隠れなき烱眼(ケイガン)洞察の士と聞いてゐますが、どう思はれますか」
「然(しか)り。わたくしの考へも同じである」
賈詡は、さう答へた上、その答への詐(いつは)りでない証拠にと、主人張繡にむかつて、曹操の美徳を称へ、
「この際、おすゝめに任せて、曹丞相に服し玉ふこそ、御当家にとつても、最善な方策でありませう」
と、転向を促した。
ところへ又、折も折、河北の袁紹からも、同じやうな目的の下に、特使が来て、袁紹の書簡を襄城にもたらした。
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次回 → 奇舌学人(二)(2025年1月24日(金)18時配信)