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陣営のうちで、張飛はまだ酒をのみつゞけてゐた。
そこへ卒の一伍長が、あわたゞしく馳(かけ)込んで来て、
「見張りの者の怠りから大失態を演じました。申しわけもございません」
と、懲罰に処した樹上の士卒が、いつの間にか逃走した由を、平蜘蛛(ひらぐも)のやうになつて慄(ふる)へながら告げた。
「知つとる/\。将として、それくらゐな事、知らんでどうする。……あはゝゝゝ、それでいゝのだ」
彼は、大杯を挙げて、自ら祝すやうに飲み干し、幕営を出て、星を仰いだ。
「そろそろ二更の頃だな。——わが三千の兵は三分して各自の行動に移れ。——その一は、間道をしのび、その二は、山を越え、その一は、止(とゞ)まつて敵の前面へ向ふ」
張飛の命令が伝はると、やがて夜靄(よもや)のなかに、まづ二千の兵が先に、何処(どこ)かへうごいて行つた。
それは、敵の防寨(バウサイ)の背後へまはつて忍ぶ潜兵らしかつた。
「まだちと早い。もう一杯飲んでからでいゝ」
張飛は、残る三分の一の兵をそこに止めて、なお一刻ほど、酒壺(シユコ)を離さず、時折、星の移行を測つてゐた。
その宵。
劉岱の防寨の方では、早くも、今夜敵の張飛が夜討ちをかけてくるといふことを知つて、ひどく緊張してゐた。
「あわてるな。敵の脱走兵の訴へとて、めつたに信じるとは危険だ。おれ自身、その兵を取調べてみよう。こゝへ其奴(そやつ)を引ツ張つてこい」
劉岱は、部下の動揺を戒めて、その夕方、密告に馳(かけ)込んで来たといふ二人の敵の脱走兵を、自分の前に呼びだした。
見ると、ひとりは凡(たゞ)の士卒だが、もう一名のはうは、手足も傷だらけで、顔は甕のごとく腫れあがつてゐる。
「こら、敵の脱走兵。貴様たちは、張飛から策をうけて、今夜、夜討をしかけるなどゝあらぬ事を密告に来、わが陣地を攪乱(カクラン)せんと企んで来たにちがひあるまい。そんな甘手にのる劉岱ではないぞ」
「滅相もない事を。……手前共は鬼となつても、張飛のやつを、全滅の憂目に会(あは)せてくれねばと……死を賭して、御陣地へ逃げこんで来た者でございまする」
「いつたい、何で張飛に対し、そのやうに根ぶかい恨みを抱くのか」
「詳しいことは、先に御家来方まで、申しあげた通りで、そのほかに、仔細はございません」
「何の咎もないのに打擲(テウチヤク)されたあげく、大樹の梢にしばり上げられたとかいふが」
「へい。餘りといへば、酷(むご)い仕方ですから、その返報にと思ひまして」
「……これ。誰かあの脱走兵の訴人を裸体(はだか)にしてみい」
劉岱は傍らの者に命じた。
言下に、訴人の兵は、真つ裸にされた。——見れば、顔や手足ばかりでなく、背にも臂(ひじ)にも、縄目のあとが痣(あざ)になつてゐた。そして全身、鼈甲(ベツカフ)の斑(ふ)みたいに腫れてゐる。
「……なるほど、詐(いつは)りでもないらしいが」
と、疑ひぶかい劉岱も、半分以上、信じて来たが、まだ決しかねて、敵の夜討に備へる手配も怠つてゐた。
すると、果(はた)して。
二更もすこし過(すぎ)た頃、防寨の丸木(まるき)櫓(やぐら)にのぼつてゐる不寝番(ねずのばん)が、
「夜襲らしいぞ」
と、警板をたゝいた。
夜霜のうちから潮(うしほ)のやうな鬨(とき)の声が聞えた、と思ふと、陣門の前面に、敵が柴をつんで焼(やき)立てる火光がぼつと空に映じた。矢うなりはもう劉岱の身辺にも落て来た。
「しまつた!……敵兵の密訴は噓でもなかつたのだ。それつ、一致して防戦にあたれ」
慌てふためいた劉岱は、自分も得物を取つて、直ちに防ぎに走り出した。
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次回 → 不戦不和(三)(2025年1月21日(火)18時配信)