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どうも煮えきらない玄徳の命令である。争気満々たる張飛には、それがもの足らなかつた。
「劉岱が虎牢関でよく戦つたこと位(くらゐ)は、此方とても存じてをる。さればとて、何程のことがあらう。即刻、馳(はせ)向つて、この張飛が、彼奴(きやつ)をひつ摑んでこれへ持ち来たつて御覧に入れます」
「そちの勇は疑はぬが、そちの躁(さは)がしい性情をわしは危(あやぶ)むのだ。必ず心して参れよ」
玄徳の訓戒に、張飛は、むつと腹をたてゝ、
「躁(さは)がし/\と、まるで耳の中の虻(あぶ)か、懐中(ふところ)の蟹みたいに、この張飛をお叱りあるが、もし劉岱を殺して来たら、何とでも云ふがいゝ。いくら兄貴でも主君でも、さう義弟(おとと)を〔ばか〕にするものぢやない」
と、云ひちらして、彼はぷん/\怒りながら閣外へ出て行つた。
そして、三千の兵を閲(えつ)して、
「これから劉岱を生捕りに行くんだ。おれは関羽とちがつて軍律は厳しいぞ」
と、兵卒にまで当りちらした。
張飛に引率されて行く兵は、敵よりも自分たちの大将に恐れをなした。——一方、寄手の劉岱も、張飛が攻めて来たと知つて、ちゞみ上つたが、
「柵、塹壕、陣門をかたく守つて、決して味方から打つて出るな」
と、戒めた。
短兵急に押(おし)よせた張飛も、蓑蟲のやうに出て来ない敵には手の下しやうもなく、毎日、防寨(バウサイ)の下へ行つては、
「木偶(でく)の棒つ。——糞(くそ)ひり虫。——糞ひることも忘れたのだろ」
と、士卒を〔けし〕かけて、悪口雑言を云はせたが、何と云はれても、敵は防禦の中から首も出さなかつた。
張飛は、持ち前の短気から、業(げふ)を煮やして来たとみえ、
「もうよそ/\。このうへは夜討だ。こよひ二更の頃に、夜討をかけて、蛆虫どもを踏(ふみ)つぶしてくれる。用意々々」
と、声あらゝかに命じ、準備がとゝのふと
「元気をつけておけ」
と、昼のうちから士卒に酒を振舞ひ、彼自身もしたゝかに呑んだ。
「景気のいゝ大将」
と、兵隊たちも、酒を呑んでゐるうちは、張飛を礼讃してゐたが、そのうちに、何か気に喰はない事があつたのか、張飛は、咎(とが)もないひとりの士卒を、さん/゛\に打擲(チヤウチヤク)したあげく、
「晩の門出に、軍旗の血祭りに具(そな)へてくれる。あれに見える大木の上に縛(くゝ)り上げておけ」
と、いひつけた。
士卒は、泣(なき)叫んで、掌を合(あは)せたがゆるさない。高手小手にいましめられて、大木のうへに、生き礫刑(はりつけ)とされてしまつた。
夕方になると、たくさんな鴉(からす)がその木に群(むれ)て来た。張飛に打(うち)たゝかれて肉もやぶれ皮も紫いろになつてゐる士卒は、もう死骸に見えるのか、鴉はその顔にとまつて、羽ばたきしたり、嘴(くちばし)で眼を突ツついたり、五体も見えないほど真黒にたかつて躁(さは)いだ。
「ひィつ……畜生つ」
悲鳴をあげると、鴉はぱつと逃げた。ぐつたり、首を垂れてゐると、また集まつてくる。
「——助けてくれつ」
士卒はさけび続けてゐた。
すると、夕闇を這つて、仲間のひとりが、木に登つて来た。何か、彼の耳もとにさゝやいてから、縄目を切つてくれた。
「畜生、この恨みをはらさずにおくものか」
半死半生の目に会つた士卒も、その友を助けた士卒も、抱き合つて、恨めしげに張飛の陣地を振向き、闇にまぎれて、何処(いづこ)ともなく脱走してしまつた。
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次回 → 不戦不和(二)(2025年1月20日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。