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曹操はもちろんその大軍を自身統率して、黎陽へ出陣すべく、早朝に武装のまゝ参内して、宮門からすぐ馬に乗つたが、その際、部下の劉岱(リウタイ)、王忠(ワウチウ)のふたりに、五万の兵を分け与へて、
「其方どもは、徐州へ向つて、劉玄徳にあたれ」
と、命じた。
そして自分のうしろに捧げてゐる旗手の手から、丞相旗を取つて、
「これを中軍に捧げ、徐州へはこの曹操が向つてをるやうに敵へ見せかけて戦ふがよい」
と策を授け、またその旗をもふたりへ預けた。
勇躍して、ふたりの将は、徐州へ向つたが、後で、程昱がすぐ諫めた。
「玄徳の相手として、劉岱、王忠のふたりでは、智力ともに不足です。誰かしかるべき大将をもう一名、後から参加させてはどうですか」
すると曹操は、聞くまでもないことゝ頷(うなづ)いて、
「その不足はよく分つてをる。だからわが丞相旗を与へて、予自身が打(うち)向つたやうに見せかけて戦へと教へたのだ。玄徳は、予の実力をよく辨(わきま)へてをる。曹操自身が来たと思へば、決して、陣を按じて進んで来まい。そのあひだに、予は袁紹の兵をやぶり、黎陽から勝(かち)に乗つて徐州へ迂回し、手づから玄徳の襟がみをつかんで都への土産として凱旋するつもりだ」
と、豪笑した。
「なるほど、それも……」
と、程昱は二言もなく彼の智謀に伏した。
こんどの決戦は、黎陽の方こそ重点である。黎陽さへ潰滅すれば、徐州は従つて掌(て)のうちにある。
それを、徐州へ重点をおいて、良い大将や兵力を向ければ、敵は、徐州へ多くの援護を送るにちがひない。
さうなると、徐州も落ちず、黎陽もやぶれずという二兎両逸の愚戦に終らないかぎりもない。
「丞相に対しては、めつたに献言はできない。自分の浅慮を語るやうなものだ」
程昱はひとり戒めた。
黎陽(山西省。黎城(レイジヤウ))——そこの対陣は思ひのほか長期になつた。
敵の袁紹と、八十餘里を隔てたまゝ、互(たがひ)に守るのみで、八月から十月までどつちからも積極的に出なかつた。
「はて、なぜだらう?」
万一、彼に大規模な計略でもあるのではないかと、曹操もうごかず、ひそかに細作を放つて、内情をさぐつてみると、さうでもない実情がわかつた。
敵の一大将、逢紀はこゝへ来てから病んでゐた。そのため審配がもつぱら司令にあたつてゐたが、日頃からその審配と不和な沮授は、事(こと)毎(ごと)に彼の命を用ひないらしいのである。
「はゝあ、それで袁紹も、持(もち)まへの優柔不断を発揮して、こゝまで出て来ながら戦ひを挑まないのであつたか。この分ではいづれ内変が起るやも知れん」
彼は、さう見通しをつけたので、一軍をひいて、許都へ帰つてしまつた。
——と云つても、もちろん後には、蔵覊(ザウハ)(ママ)、李典、于禁などの諸大将もあらかた留め、曹仁を総大将として、青州徐州の境から官渡(クワント)の難所にいたるまでの尨大(ボウダイ)な陣地線は、そのまゝ一兵の手も弛(ゆる)めはしなかつた。たゞ機を見るに敏な彼は、
「予自身、こゝにゐても、大した益はない」
と戦の見こしをつけた結果である。それと、徐州のはうの戦況も、気にかゝつてゐたにはちがひない。
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次回 → 鬮(くじ)(一)(2025年1月15日(水)18時配信)