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すると、また一名、
「いやいや、そのお説は、耳には勇ましく聞えるが、一国の浮沈を賭けて、自己の驕慢を満足させようとするやうなもの。いはゞ大きな賭博を打つにも異(ことな)らぬ暴挙である」
と起上つて、審配の言に、反対した大将がある。
諸人、これを見れば、広平の人、沮授(ソジユ)であつた。
沮授は云ふ。
「義兵は勝ち、驕兵はかならず敗る。誰も知る戦の原則である。——曹操はいま許昌にあつて、天下を制してゐるが、命(メイ)はみな帝の御名を以(もつ)てし、士卒は精練、彼自身は、機変妙勝の胆略を蔵してゐる。故に、彼の出す法令には、誰も拒むことができない。然(しか)るに——」
「待たれい!」
審配は、奮然とまた起つて、
「沮授どのには、曹操を讃美して、われ等の説は、驕兵の沙汰と云はるゝのか」
「さうである!」
「何つ」
「敵を知らずして、敵に勝つことはできませんぞ」
「知るにあらず、尊公のはたゞ怖れるのだ」
「然り、自分は、曹操を怖れます。彼を、先に滅んだ公孫瓚ごときものと同一視されると、とんだ事になりますぞ」
「あはゝゝ」
審配は、満座へ向つて、哄笑を発しながら、
「えらい恐曹病者もゐるものだ、恐曹病患者と議論は無益だ」
と、云ひながら、側にゐる郭図(クワクト)の顔を見た。
大将郭図は、日ごろから沮授と仲が悪いので、彼こそ自分の説を支持するだらうと思つたからである。
案の定、郭図は次に起立して、
「いま曹操を討つのを、誰が、無名のいくさと誹(そし)りませうぞ。武王の紂(チウ)を討ち、越王の呉を仆す、すべて時あつて、変に応じたものです。いたづらに安泰をねがつて、世のうごきを拱手傍観してゐた国で、百年の基礎をさだめた例がありませうか。——しかも、賢士鄭玄さへ、遠く書をわが君に送つて、玄徳をたすけ、共に曹操を討つこそ、実に今日をおいてはあるべからずと云つて来てゐるではありませんか。わが君には、何故(なにゆゑ)の御猶豫ですか。疾(と)く無益な紛論をやめて、即刻、御出兵の命こそ、臣等一同の待つものでございます」
と、郭図のことばは、その内容は浅いが、音吐朗々、態度が堂々としてゐるので、一時、紛々の衆議を、声なくしてしまつた。
「さうだ。鄭玄は一世の賢士である。彼が、この袁紹のために、わざ/\悪いことをすゝめてくるはずはない」
遂に、袁紹も意をきめて、一方の出軍説を採ることになつた。郭図、審配などの強硬派は、凱歌をあげて退出し、反対した田豊や沮授の輩も、
「このうへは是非もない」
と、黙々、議堂から溢れて、やがて出征の命を待つた。
許都へ!中原へ!
十万の大軍は編制された。
審配、逢紀(ホウキ)のふたりを総大将に。田豊、荀諶(ジユンジン)、許攸(キヨシウ)を参軍の謀士に。また顔良、文醜の二雄を先鋒の両翼に。
騎馬兵二万、歩兵八万、そのほか夥(おびたゞ)しい輜重や機械化兵団まで備はつてゐた。
河北の地に、空も蔽(おほ)ふばかりな兵塵のあがり出した頃、玄徳の使(つかひ)孫乾は、
「得たり!わが君の御武運はまだつきない」
と、鞭を高く、徐州へさして、急ぎ帰つてゐた。
ふところには「援助の儀承諾」の旨を直書した袁紹の返簡を持つてゐる。
時に、用ひかた如何(いかん)に依つては、閑人(カンジン)の一書といへども、馬鹿にできない働きをする。高士鄭玄の一便は、かくて、河北の兵十万を、曹操へ向はしめたのであつた。
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次回 → 丞相旗(一)(2025年1月13日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。