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はる/゛\徐州の使(つかひ)孫乾(ソンカン)が、書簡をたづさへて、北支の府に来れりといふので、袁紹は、日を期して謁見を与へた。
孫乾は、まづ玄徳の親書を捧呈してから、
「願はくば、閣下の精練の兵武をもつて、許都の曹賊を討平し、大きくは漢朝のため、小にはわが主玄徳のため、この際、平常の御抱負を展(の)べ、奮勇一番、御(ご)蹶起(ケツキ)あらんことを」
と、再拝低頭、畏れ慎んで云ひながらも、対手(あひて)の腹中にはいつて懇願した。
袁紹は、一笑した。
「何かと思へば、虫のよい玄徳の頼み。彼は先頃、わが弟の袁術をころしたではないか。いづれ弟の仇(あだ)を思ひ知らしてやらうとは考へてゐたが、彼に助力を与へんなどとは、思つてみた事もない。何を戸惑うてこの袁紹に……。あははゝ、使者に来る者も来る者。仮面(めん)でもつけて参つたか」
「閣下。そのお恨みは、曹操にこそ向けられるべきです。何事につけ廟堂の奸賊は、朝命をもつて、濫(みだり)に命じ、そむけば違勅の罪を鳴らさうといふのであります。わが主玄徳のごときも、まつたく心なく淮南の役(エキ)にさし向けられ、しかも功は問はず、非のみ責める曹操の非道に、遂に、堪忍をやぶつて、今日(コンニチ)わたくしを遠く使(つかひ)せしめるに至つたものでございます。何とぞ御賢慮をもつて、這般(シヤハン)の〔いきさつ〕を深く御洞察ねがはしうぞんじます」
「おそらくそれは真実の言だらう。曹操なる者は、元来がさうした奸才に長(た)けた人間だ。配するにお人〔よし〕の玄徳ときては、さもある筈。しかし玄徳は一面、実直で信義に篤く、自然人望に富むといふ取得(とりえ)もあるから、彼が心から悔いてゐるなら救うてやらぬこともないが、一応、評議のうへ返答に及ぶであらう。数日、駅館にて休息してをるがよい」
「何分のおはからひを待ちをりまする。——就(つい)ては、べつにこの一通は、日ごろ主人玄徳を、子のごとく愛され、又、無二の信頼をおかけ下されてゐる高士鄭玄より特に託されて参つた御書面にございまする。後にて、御一見くだし置かれますやうに」
と、その日は退(さ)がつた。
後で、鄭玄の手紙を見てから、袁紹のこゝろは大いにうごいた。元々、彼としては、北支四州に満足はしてゐない。進んで中原に出で、曹操の勢力を一掃するの機会を常にうかゞつてゐるのである。弟の恨みよりも、玄徳を麾下に加へておいたはうが、将来の利であると考へ直して来たのだつた。
つぎの日。
大閣の議堂に諸大将は参集してゐた。
「曹操征伐の出軍、今を可(よし)とするか、今は非とするか」
に就(つい)て、議論は白熱し、謀士、軍師、諸大将、或(あるひ)は一族、側近の者など、是非二派にわかれて、舌戦(ゼツセン)果(はて)しもなかつた。
北支随一の英傑といはれ、見識高明のきこえある田豊(デンホウ)は、
「こゝ年々の合戦つゞきに、倉廩(ソウリン)の貯へも、富めりとは云へないし、百姓の賦役(フエキ)も、まだ少しも軽くはなつてをらない。まづ、国内の患(うれひ)を癒やし、辺境の兵馬を強め、河川には船を造らせ、武具糧草をつみ蓄へて、おもむろに機を待てば、かならず三年のうちに、自然、許都の内より内訌(ナイカウ)の兆(きざし)があらはれよう。それ迄(まで)は、朝廷に貢(みつぎ)をさゝげ、農政に務め、民を安んじ、ひたすら国力を養つておくべきである」
と、述べた。
すると一名、すぐ起つて、
「今のお説は、甚だしくわが意にかなはん。河北四州の精猛に、主公の御威武をいたゞき、何すれば、曹操ごときを、さまで怖れたまふか。兵法に曰(い)ふ、十囲五攻、すべて一歩の機と。今日のやうな変動の激しい時勢に、三年もじつと受身でゐたらひとりでに国が富み栄えるなどとは、痴者の夢よりもまだ愚(おろか)しい。機なしとせば十年も機なし。活眼電瞬、今こそ、中原に出る絶好の秋(とき)ではないか」
と、大声で駁(バク)したてた。誰かとみれば、相貌端壮、魏(ギ)郡の生れで、審配(シンハイ)字(あざな)を正南(セイナン)といふ大将だつた。
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次回 → 一書十万兵(三)(2025年1月11日(土)18時配信)