ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 霧風(むふう)(二)
***************************************
その後、玄徳は徐州の城へはいつたが、彼の志とは異つてゐた。しかし事の成行(なりゆき)上、また四囲の情勢も、彼に従来のやうな〔あいまい〕な態度や卑屈はもうゆるさなくなつて来たのである。
玄徳の性格は、無理がきらひであつた。何事にも無理な急ぎ方は望まない。——今、曹操とは正しく相(あひ)反(そむ)いたが、それとてもこんどのやうな事件を惹起して、曹操の怒りに油をそゝぐやうなことは、決して、玄徳の好むところではなかつた。
「曹操の気性として、かならず自身大軍をひきゐて攻めてくるであらう。何をもつて、自分は彼に抗し得ようか」
彼は、正直に憂へた。
「御心配は無用です」
陳登が彼にさう云つた。
玄徳はあやしんで、その理由を反問した。すると陳登は、
「この徐州の郊外に、独り詩画(シグワ)琴棋(キンキ)をたのしんで、餘生をすごしてゐる高士が居ります。桓帝の御世宮廷の尚書を勤め、倉厨(ソウチユウ)は富み、人品もよく……」
と、まるで別な事を話し出した。
「陳登、其許(そこもと)はわれに、何を説かうといふのか」
「さればです。もしあなたが、今の憂を払はんと思し召すなら、いちどその高士(カウシ)鄭玄(テイゲン)をお訪ねなされては如何(いかゞ)かと?」
「書画琴棋の慰みなどは、玄徳の心に何のひゞきもない」
「彼は世外の雅客ですが、あなたに迄(まで)、風月に遊べとおすゝめ申すのではありません。——高士鄭玄と、河北の袁紹とは共に宮中の顕官であつた関係から三代の通家であります」
「……?」
玄徳は、深い眼をすました。
「——いま曹操の威と力とを以てしても、なほ彼が常に恐れ憚(はゞか)つてゐる者は、河北の袁紹しかありません。河北四州の精兵百餘万と、それを囲繞(ヰネウ)する文官、武将、謀士、また北支の天地の富や彼の門地など、抜くべからざる大勢力です。失礼ながらまだ/\あなた如きは、さう彼の眼中にはないでせう」
「……うム」
玄徳は苦笑した。——さうだ曹操の眼にはまだ自分などは——と、みづから〔ほくそ〕笑まれたのである。
「親しく鄭玄にお会ひあつて、袁紹への手紙をひとつ書いておもらひなさい。鄭玄が書簡をかけば、袁紹はきつとあなたに好意を示しませう。袁紹の合力さへあれば、曹操とて、恐れるに足りません」
「なるほど。……御身の深謀は珍重にあたひするが、成功はしまい」
「なぜですか」
「思うてもみよ。わしはすでに袁紹の弟、袁術をこの地に滅ぼしてゐるではないか」
「ですから、そこを鄭玄にとりなしてもらふのです。ともかく、世外の高士に、世俗の働きをさせるところが、この策の妙の妙たるところなんです」
遂に彼を案内として、玄徳は、高士鄭玄の門をたゝいた。鄭玄は快く会つてくれたのみならず、慇懃、膝下(シツカ)にひざまづいて志をのべる玄徳を見て、
「君のやうな仁者のために、計らずも世俗の用を久しぶりに論じるのは、老後の閑人(カンジン)にとつて、むしろ時ならぬ快事ぢやよ」
と、さつそく筆を執つて、細々(こま/゛\)と自分の意見をも加へ、河北の袁紹へ宛(あて)て、一書をかいてくれた。
どうか小さな私怨などわすれて、
劉玄徳に協力を与へて欲しい。
青史は昭々、万代滅せず、今日
の時運は歴歴、大義大道の人に
向いてゐる。この際、劉玄徳を
得るは、いよ/\袁家の大慶で
もあることゝ信じ、自分も欣然
この労を執つた。
「これでよいかの」
鄭玄は自分の文を詩のやうに吟誦してから封をした。玄徳は押しいたゞいて門を辞した。驢を回して城に帰ると、すぐ部下の孫乾を河北へ使(つかひ)に立てた。
**************************************
次回 → 一書十万兵(二)(2025年1月10日(金)18時配信)