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車冑も〔さるもの〕である。陳登に急かれたり脅されたりしても、
「いや、夜明を待つて開けても遅くはない。何分にも、まだ城門の外は暗いし、前触れもない不意の使者、滅多に開けることはならん」
と、云ひ張つてゐた。
夜が明けては万事休すである。関羽は気が気ではなく、
「開けないか!火急、機密の大事あつて、曹丞相からさし向けられたこの張遼を、何故(なにゆゑ)、城門を閉ぢて拒むか……。はゝあ、さては車冑には異心ありとおぼえたり。よろしい、立帰つて、この趣きをありのまゝ丞相におこたへ申すから後に悔ゆるな」
云ひ放つて、後にしたがふ隊伍の者へ、引つ返せとわざと大声で号令を発してゐた。
車冑は狼狽して、
「あいや待たれよ、東の空も白みかけて、実否のほども、仄かに辨へられて参つた。丞相のお使者に相違あるまい。——お通りあれ」
と直(たゞち)に、城門をさつと開かせた。
とたんに、濠の面にたちこめて白い朝霧が濛々と這(は)入(い)つてきた。その中をどか/\と渡つて来る兵や馬蹄の跫音(あしおと)は餘りにも夥(おびたゞ)しかつた。けれど夜はまだ明けきれてゐないので、顔と顔とをぶつけ合せなければ、誰が誰やら分らなかつた。
「車冑とは、君か」
関羽が近づいて行くと、変に思つた車冑は、突然
「——呀(あ)ツ、汝等は?」
と、絶叫をのこして、すばやく何処かへ逃げてしまつた。
沛然と、こゝ一ケ所に、血の豪雨がふりそゝぎ、城中の兵は、みなごろしの目に遭つた。
大半の城兵は、まだ眠つてゐたところである。そこへ関羽、張飛の手勢一千は、前夜から手(て)具(ぐ)脛(すね)ひいて来たのであるから、大量な殺戮も思ひのまゝ行はれた。
陳登は、逸(いち)はやく、城楼に駈けのぼつて、かねてそこに伏せておいた沢山な弩弓手(ドキウシユ)に、
「車冑の部下を射ろ」
と、命じた。
弓をつらねてゐた兵は、味方を射ろといふ命令にまごついたが、陳登が剣を抜いてうしろに立つてゐるので、一斉に、逃げまどふ味方の上に矢を注ぎかけた。
乱箭の下に仆れる城兵も無数であつた。城代の車冑は、厩から馬を引き出すと、一目散に、門楼をこえて、逃げだしたが、
「この虻め、どこへ失せるか」
追ひしたつてきた関羽の一閃刀に、その首を大地へ委してしまつた。
夜が明けた。
玄徳は、変を聞いて、
「大変なことをしてくれた」
と、俄(にはか)に家を出て、徐州城へ馳つけようとすると、すでに関羽は鮮血淋漓となつて車冑の首を鞍にひつくゝり、凱歌をあげながら引(ひき)揚(あげ)てきた。
ひとり浮かぬ顔は、それを迎へた玄徳で、
「車冑は、曹操の信臣、また徐州の城代である。これを殺せば、曹操の憤怒は、百倍するにちがひない。自分が知つてゐたら、殺すのではなかつたのに」
と、悔やんだ。
そして、この中にまだ張飛の姿が見えないがと、案じてゐると、その張飛も亦(また)、ひと足あとから、これへ駈けもどつて来て、
「あゝ、さつぱりした。朝酒でもぐつと飲みほしたやうな朝だ」
と、血ぶるひしてゐた。
玄徳が、眉をひそめて、
「車冑の妻子(サイシ)眷族(ケンゾク)は、どう処分して来たか」
と訊ねると、張飛は、いと無造作に、
「それがしがあとに残つて、悉(こと/゛\)く斬りころして来ましたから、御安心あつて然るべしです」
と昂然、答へた。
「なぜ、そんな無慈悲なことをしたか」
玄徳は、張飛の狂躁をふかく戒めたが、叱つてみても、もう及ばないことだつた。許都の曹操に対して、彼の憂ひと畏怖は人知れず深かつた。
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次回 → 一書十万兵(二)(2025年1月9日(木)18時配信)