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前回はこちら → 兇門(きようもん)脱出(四)
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かねて董承に一味して、義盟に名をつらねてゐた西涼の太守馬騰も、玄徳が都を脱出してしまつたので、
「前途はなほ遼遠——」
と見たか、本国に胡族(えびす)の襲来があればと触れて、遽(にはか)に、西涼へさして帰つて行つた。
時しも建安四年六月。
玄徳はすでに、徐州に下着してゐた。
徐州の城には、さきに曹操が一時的にとゞめておいた仮の太守車冑(シヤチウ)が守つてゐた。
車冑は、出迎へて、
「見れば、相府直属の大軍をひきゐ給うて、何事のため、遽(にはか)な御下向でござるか」
と、怪訝(いぶか)りながらも、その夜は、城中に盛宴をひらき、軍旅のつかれを慰めたいと云つた。
宴へ臨む前に、玄徳は車冑と、べつの一閣に会つて、
「丞相がそれがしに五万の兵を授けられたのは、かねて伝国の玉璽を私し、皇帝の位を僭(セン)してゐた袁術が、兄の袁紹と合体して、伝国の玉璽を河北へ持ちゆかんとしてゐるのを、半途にて討たんが為である。——ついては、急速に、また密に、袁術の近況と、淮南の情勢とを、御身も力をあはせて探索してもらひたい」
と、協力をもとめた。
「承知致しました。——して丞相より軍勢に付(つけ)おかれた二人の大将とは、誰と誰とでござるか」
「朱霊(シユレイ)、露昭(ロセウ)の両人である」
話してゐるところへ、
「御健勝のていを拝し、こんな歓びはございません」
と、旧臣の糜竺や孫乾(ソンカン)たちも会ひに来たので、打揃つて、当夜の宴に臨んだ。
宴の終るのを待(まち)かねて、玄徳は、糜竺や孫乾(ソンカン)などと共に、城を出た、そして妻子のゐる旧宅へ久しぶりに帰つた。
玄徳はまづ、老母の室へ行つて、老母の膝下にひざまづき、
「母上、あなたの息子は、今帰つて来ました。阿備(アビ)とお呼び下さい。阿備ですよ」
と、手をさしのべた。
「おゝ、……阿備か」
老母は、玄徳の手を撫で、肩を撫でまはし、やがてその顔を抱へこんだ。
「よう御無事で……」
老母はすぐ涙ぐむ。近頃は眼もかすみ、耳も遠く、歩行も独りでは出来なくなつてゐた。しかし何不自由なく、いつも柔かい絹や獣皮や羽毛に埋もつて、ひたすら息子の無事ばかり祈つてゐた。
「よろこんで下さい母上。こんど都に上つて、天子に謁し、その折、御下問によつて、始めて、わが家の家系をお耳に達しましたところ、天子には直ちに、朝廷の系譜をお調べになり、紛れもなく、劉玄徳が祖先は、わが漢室の支(わか)れた者の裔(すゑ)である——玄徳は朕が外叔(ガイシユク)にあたるものぞと、勿体ない仰せをかうむりました。これで長らく埋もれてゐたわが家も、ふたゝび漢家の系譜に記録せられ、いさゝか地下の祖先の祠(まつり)もできるやうになりました。……これもみな母上のおちからが、私といふ苗木を通じて、ひとつの華(はな)を咲かせて来た結果でございます。母上、どうぞ長らくお生き遊ばして、もつともつと、劉家の庭に華の咲く日を見てゐてください」
「……さうか。オヽ——さうか—」
老母は、歓びの表情を、たゞ涙でばかり示してゐる。ほろ/\と頷(うなづ)いてばかりゐる。
やがて一堂は春風のやうな団欒(まどゐ)に賑はふ。妻も交(まじ)り、子たちも集まつて来る。玄徳もいつかその中に溶け入つて、他愛ない家庭人となりきつてゐた。
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次回 → 偽帝の末路(二)(2025年1月4日(土)18時配信)
昭和15年(1940)12月29日(日)付から昭和16年(1941)1月4日(土)付まで夕刊は休刊でした。これに伴い、次回配信は2025年1月4日(土)からとなります。
本年のご愛顧に感謝いたします。来年もよろしくお願いいたします。