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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 黒風(こくふう)白雨(びやくう)(一)
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その夜は猟師の家に宿つた。
猟師といふ主(あるじ)の男は、感涙をながして、
「こんな山家(やまが)に御領主をお泊め申すことは勿体ないやら有難いやらで、どうおもてなし致していゝかわかりません」と、拝跪(ハイキ)して云つた。
玄徳は見て、
「主は、以前からこの村に住居してをる者か」
と、たづねた。
猟師にしては、どこか骨柄(コツがら)の秀(ひい)でたところが見えたからである。
主は、破れ床(とこ)に平伏して、
「お恥しい次第ですが、祖先は漢家のながれを汲み、劉氏の苗裔(ベウエイ)で、自分は劉安(リウアン)と申すもので御座います」
と、答へた。
その晩、劉安は肉を煮て玄徳に饗(ケウ)した。
飢ゑぬいてゐた玄徳主従は、歓んで箸を取つた。
そして、
「何の肉か」
と、たづねると、
「狼の肉です」
といふ劉安の返辞だつた。
ところが、翌朝出発に際し、孫乾が馬を引出さうとして、何気なく厨(くりや)をのぞくと、女の死骸があつた。
愕(おどろ)いて、主(あるじ)の劉安に、
「いかなるわけか」
と質(たゞ)すと、劉安は泣いて、
「わたくしの愛妻ですが、御覧のごとく家貧しく、殿へ饗すべき何物もありませんので、実は、妻の肉を煮ておもてなしに捧げたわけでございます」
と、初めて打明けた。
孫乾からそれを聞いて、玄徳感傷してやまなかつた。で、劉安にかうすゝめた。
「どうだ、都へのぼつて任官をしては」
すると、劉安は顔を振つて、
「思(おぼ)し召(めし)はありがたうぞんじますが、手前が都へ行つては、ひとりの老母を養ふ者がありません。老母は、動かせない病人ですから、どうもその儀は」
と、断つた——といふ。
=〔読者へ〕
作家として、一言こゝにさ
し挟むの異例をゆるされたい
劉安が妻の肉を煮て玄徳に饗
したといふ項は、日本人のも
つ古来の情愛や道徳ではその
まゝ理解しにくいことである。
われわれの情美感や潔癖は、
むしろ不快をさへ覚える話で
ある。
だから、この一項は原書に
はあつても除かうかと考へた
が、原書は劉安の行為を、非
常な美挙として扱つてゐるの
である。そこに中古支那の道
義観や民情も窺はれるし、さ
ういふ彼我の相違を読み知る
ことも、三国志の持つ一つの
意義でもあるので、敢て原書
の儘(まゝ)にしておいた。
読者よ。
これを日本の古典「鉢の木」
と思ひくらべてみたまへ。雪
の日、佐野の渡しに行き暮れ
た最明寺時頼の寒飢をもてな
すに、寵愛の梅の木を伐つて、
炉にくべる薪とした鎌倉武士
の情操と、劉安の話とを。——
話の筋はまことに似てゐる
が、その心的内容には狼の
肉の味と、梅の花の薫り位な
相違が感じられるではない
か。
閑話休題(それはさておき)。
玄徳は次の日、そこを立つて梁(リヤウ)城の附近に到ると、彼方から馬けむりを揚げて来る大軍があつた。
それなん、曹操自身が、許都の精猛を率ゐて、急ぎに急いで来た本軍であつた。
地獄で仏に。
玄徳は、計らずも曹操にめぐり会つて、まつたくそんな心地であつた。
曹操は始終を聞いて、
「乞ふ。休んじ給へ」
と、彼をなぐさめ、なほ、前の夜玄徳が泊つた宿の主、劉安の義俠を聞いて、金若干を与へ、
「老母を養ふべし」
と、使(つかひ)に言はせた。
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次回 → 黒業白業(三)(2024年10月29日(火)18時配信)