第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 死活往来(七)
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「やつ、怪しい……?」
と、後見送りながら、呂布が気づいた時は、すでに曹操の影は、町中に立ちこめてゐる煙の中に見えなくなつてゐた。
「ああ、危(あやふ)かつた」
曹操は、夢中で逃げ走つてきてから、ほつと駒を止めて呟いた。真(シン)に虎口を脱したとは、この事だらうと思つた。
——が、一体こゝは何処か。西か東か。その先の見当は依然として五里霧中のこゝちだつた。
そうして彷徨(さまよ)つてゐるうちに、漸(やうや)く自分を探してゐる悪来に出会つた。そして悪来に庇護されながら、辻々で血路を斬り開き、東の街道に出る城外の門まで逃げてきた。
「やあ、こゝも出られぬ!」
曹操は、思はず嘆声をあげた。駒も大地を蹄で叩くばかりで前へ出なくなつた。
それも道理。街道口の城門は、今、旺(さかん)に焼けてゐた。長い城壁は一連の炎の樋(とひ)となつて、火熱は天地も焦がすばかりである。
「だうツ。だうツ。だうツ……」
熱風を恐れて駒は狂ひに狂ふ。鞍〔つぼ〕にも、盔(かぶと)へも、パラ/\と火の粉は降りかゝる。
曹操は、絶望的な声で
「悪来。戻るより外はあるまい」
と、後(うしろ)を見て云つた。
悪来は、火よりも赤い顔に、眦(まなじり)を裂いて睨んでゐたが
「引つ返す道はありません。こゝの門が幽明の境(さかひ)です。てまへが先に馳け抜けて通りますから、すぐ後からお続きなさい」
楼門は一面焰につゝまれてゐる。城壁の上には、沢山な薪(たきゞ)や柴(しば)に火が移つてゐる。正に地獄の門だ。その下を馳け抜けるなどは、九死に一生を賭する藝当より危険にちがひない。
しかし、活路はこゝしかない。
悪来の乗つてゐる馬の尻に、びゆんツと凄い音がした。彼の姿はとたんに馬(うま)諸(もろ)共(とも)、火焰の洞門を突破して行つた。——と見るや否、曹操も、戟をもつて火塵を払ひながら、どつと焰の中へ馳けこんだ。
一瞬に、呼吸がつまつた。
眉も、耳の穴の毛までも、焼け縮れたかと思はれた時は、曹操の胸がもう一歩で、楼門の向ふ側へ馳け抜けるところだつた。
——が、その刹那。
楼上の一角が、焼け落ちて来たのである。何たる惨!火に包まれた巨大な梁(はり)が、そこから電光の如く落下してきた。そしてちやうど曹操の乗つた馬の尻を撲(う)つたので、馬は脚を挫(くじ)いて地に仆(たふ)れ、抛(はふ)り出された曹操の体のほうへ、その梁は又ぐわらつと転がつて来た。
「——呀(あ)ツ」
曹操は、仰向けに仆れながら、手を以(もつ)てその火の梁を受けた。——当然、掌(て)も肱(ひぢ)も、大火傷(おほやけど)をした。自分の体ぢゆうから、焦(こ)げくさい煙が立ちのぼつた。
「……ウヽム!」
彼は手脚を突つ張つて反(そ)り返つたまゝ焰の下に、気を失つてしまつた。
しきりと自分を呼ぶ者がある。——どれ位(くらゐ)時が経つてゐたか、とにかく微(かすか)に意識づいた時は、彼は、何者かの馬上に引つ抱へられてゐた。
「悪来か。悪来か」
「さうです。もう御安心なさい。漸く敵地も遠くなりましたから」
「わしは、助かつたのか」
「満天の星が見えませう」
「見える……」
「お生命(いのち)は慥(たしか)です。お怪我も火傷の程度だから、癒(なほ)るに極(きま)つてゐます」
「噫(あゝ)……。星空がどん/\後(うしろ)へ流れてゆく」
「後から馳け続いて来るのは、味方の夏侯淵ですから、御心配には及びませんぞ」
「……さうか」
頷(うなづ)くと曹操は遽(にはか)に苦しみ初めた。安心すると同時に半身の大火傷の痛みも分つてきたのである。
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次回 → 死活往来(九)(2024年5月31日(木)18時配信)