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そんな凶兆のある度(たび)に、黄巾賊の「蒼天スデニ死ス——」の歌は、盲目的に唄はれて行き、賊党に加盟して、掠奪、横行、殺戮——の自由にできる「我党の太平を楽め」とする者が、殖(ふ)えるばかりだった。
思想の悪化、組織の混乱、道徳の頽廃。——これを何(ど)うしようもない後漢の末期だつた。
燎原の火とばかり、魔の手を拡げて行つた黄巾賊の勢力は、今では青州、幽州、徐州、冀州、荊州、揚州、兗州、豫州(黄河口の南北地帯)等の諸地方に及んでゐた。
州の諸侯を初め、郡県市部の長や官吏は、逃げ散るもあり、降つて賊となるもあり、屍を積んで、焚殺(やきころ)された者も数知れなかつた。
富豪は皆、財を捧げて、生命を乞ひ、寺院や民家は戸毎(こごと)に、大賢良師張角——と書いた例の黄符を門に貼つて、絶対服従を誓ひ、まるで鬼神を祀るやうに、崇(あが)め恐れた。さうした現状にあつた。
偖(さて)。……
長々と、さうした現状や、黄巾党の勃興などを、自慢さうに語り来つて、
「劉——」
と、大方馬元義は、腰かけてゐる石段から、寺の門を、顎で指した。
「そこでも、黄色い貼紙を見たらう。書いてある文句も読んだらう。この地方もずつと、俺たち黄巾党の勢力範囲なのだ」
「…………」
劉備は、終始黙然と聞いてゐるのみだつた。
「——いや、この地方や、十州や二十州はおろかな事、今に天下は黄巾党のものになる。後漢の代(よ)は亡び、次の新しい代になる」
劉備は、そこで初めて、かう訊ねた。
「では、張角良師は、後漢を亡ぼした後で、自分が帝位に即(つ)く肚(はら)なんですか」
「いやいや。張角良師には、そんなお考へはない」
「では、誰が、次の帝王になるのでせう?」
「それは云へない。……だが劉備、てめえが俺の部下になると約束するなら聞かせてやるが」
「なりませう」
「屹度(きつと)か」
「母が許せばです」
「——では打明けてやるが、帝王の問題は、今の漢帝を亡ぼしてから後の重大な評議になるんだ。匈奴(蒙古族)の方とも相談しなければならないから」
「へえ? ……なぜです。何(ど)うして支那の帝王を極(きめ)るのに、昔から秦や趙や燕などの国境(さかひ)を侵して、われ[われ]漢民族を脅かして来た異国の匈奴などゝ相談する必要があるのですか」
「それは大いにあるさ」
と、馬は当然のように——
「いくら俺たちが暴れ廻らうたつて、俺たちの背後(うしろ)から、軍費や兵器をどし[どし]廻してくれる黒幕が無くつちや、こんな短い年月に、後漢の天下を攪乱する事はできまいぢやねえか」
「えっ。……では黄巾賊のうしろには、異国の匈奴がついてゐるわけですか」
「だから絶対に、俺たちは敗(ま)けるはずはないさ。どうだ劉、俺がすゝめるのは、貴様の出世の為だ。部下になれ、すぐこゝで、黄巾賊に加盟せぬか」
「結構なお話です。母も聞いたら歓びませう。……けれど、親子の中にも礼儀ですから、一応、母にも告げた上で御返辞を……」
云ひかけて居るのに、馬元義は不意に起ち上つて、
「やつ、来たな」
と、彼方の平原へ向つて、眉に手をかざした。
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次回 → 白芙蓉(びやくふよう)(一)(2023年9月8日(金)18時配信)