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張飛は、部下へ諮つた。
「どうだ雷同。——来たさうだが」
「来たのは、張郃だそうで」
「一万五千。蟻(あり)のやうに、踏みつぶしてみたいな。守つて戦ふか。出て行くか」
「地勢の阻(けは)しい所です。出かけて行つて、不意をついた方が、面白いかもしれません」
「よからう。出陣だ」
各々、五千づゝの兵力をひツさげて、張飛、雷同の二隊は、巴西を発してゐた。
はからずも、この軍と、魏の張郃の兵とは、閬中の北三十里の山間で、約束したやうにぶつかつた。
「見たぞ、張郃の姿を」
張飛は、獅子を飛ばすやうに、馬を使つて、渓谷や山間の敵を蹴ちらし始めた。
張郃は、豫期しなかつた敵にぶつかつたのと、峰(みね)谷々のすさまじい喚(とき)の声に、
「はてな?」
と、自分の位置を、危惧し出した。
振かへつてみると、後方の山にも、蜀の旗が立つてゐるし、はるか下の方にも、蜀の旗が見える。彼は、退路に、危険を感じた。
かういふ心理が首脳にうごいたとき、もう全軍は支離滅裂であつた。いや張郃自身すら、
「おゝういツ、待たんか」
と、呼ばはり/\追ひかけて来る張飛にうしろを見せてゐた。
つい先頃、曹洪の前で吐いた大言を、彼は途端にどこかへ忘れ飛ばしてゐた。それに張飛が飲み友達でも呼ぶやうに、暢気(のんき)に呼ばはつて来る声が、雷鳴に似た烈しさよりも、却つて不気味に聞えるのだつた。
「退(ひ)けや、退(ひ)けや。ひとまづ退(ひ)け」
部下にも、逃げることのみ励ました。そして、蜀の旗が見える山は避けて廻つたが、それはみな擬兵に過ぎなかつたことがあとで判つた。先廻りした雷同が、諸所へ兵を登らせて、やたらに旗ばかり立てゝゐたのである。
——が、さう知つたときは、すでに遅い。いちど崩れた陣形は、すぐ立直しがつかなかつた。殊(こと)に嶮岨な山岳地帯では。
「寨門を閉ぢろ」
辛(から)くも、辿りついた一(イツ)寨(サイ)——宕渠寨のうちへ味方を収めると、彼は、厳しく岩窟(いはあな)の門をふさぎ、渓谷の柵門(サクモン)を固め、また絶壁の堅城にふかく隠れて、
「戦ふ勿(なか)れ」
を、旗〔じるし〕にしてしまつた。
張飛もまた、彼方の一(イツ)山(サン)にまで来て、山陣(サンヂン)を張り、こゝに山と山と、人と人と、相対して、
「いざ、来い——」の態勢をとつた。
ところが、張郃は、絶対に戦はない。こつちの山陣から小手をかざして見てゐると、宕渠寨の高地へのぼつて、毎日、莚(むしろ)を展(の)べ、帷幕(イバク)の連中と共に、笛を吹いたり、鼓を打つたり、酒をのんだりしてゐる様子である。
「味な真似をしをるぞ」
張飛は、むづ痒(がゆ)い顔して、その態を、遠望してゐた。
「——おい、雷同。見たか」
「癪(シヤク)ですな。御大将」
「ひとつ、思ひ知らして来い。だが、いづれあんな事を誇示するときは、敵に計略があるときと極(きま)つてゐる。下手な手に乗るな」
「心得ました」
雷同は、一手の勢をひいて、向ふ山の下へ迫つた。そして、声かぎり、口のかぎり、張郃を悪罵し、魏兵に悪〔たれ〕口をたたいた。
「——いかんわい。何の手ごたへもありはしない。出直さう」
いたづらに、口ばかり草臥(くたび)れさせてしまつた。——戦ふ勿(なか)れ、の敵の鉄則はひどく固い。
次の日も、繰返した。
そして、前の日にも勝るほど、声をそろへて、彼を罵り辱めた。けれど、宕渠の一(イチ)山(ザン)は、頑固な啞のごとく、〔うん〕も〔すん〕も答へない。
「かゝれつ!攻登れツ」
たうとう雷同は疳癪(カンシヤク)を起して、まづ渓流を踏みこえ、沢辺(さはべ)の柵門(サクモン)へかゝつた。ばり/\とそこらを踏み破る。声をあはせて、山の肌に取つつく。
そのとき忽ち万雷の一時に崩れて来るかのやうな轟きがした。巨木、大岩石、雨のごとき矢、石鉄砲など、
「待つてゐた」と、ばかり浴せかけて来たのである。蜀兵の死者数百人、過日の勝を、この日に埋め合されて、戦は五分と五分となり、又(また)復(また)山と山は睨み合ひに入つてしまつた。
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次回 → 陣前公用之美酒(三)(2026年8月20日(木)18時配信)

