吉川英治『三国志(新聞連載版)』(813)鴻門(こうもん)の会に非(あら)ず(二)
昭和17年(1942)5月20日(水)付掲載(5月19日(火)配達)
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扈従(コジウ)の人数三万、金銀兵糧を積んだ車千餘輛、つひに成都を距(さ)ること三百六十里、涪城(重慶の東方)まで迎へに出た。
一方の玄徳は、途々(みち/\)沿道の官民のさかんな歓迎をうけながら、すでに百里の近くまで来てゐた。
と。その案内に立つてゐる法正のところへ、張松から早馬で密書が来た。法正はそれをそつと龐統に見せて、
「この時を外すなと、張松の方から云つてよこしました。お抜かりないやうに」
と、諜(しめ)しあはせた。
龐統も、大事を成すは、今にありと云つて、
「その機に臨むまで、足下も部下のものに気取られるな」
と注意した。
かくて、涪城々内、劉璋と玄徳との、対面の日は来た。
両者の会見は、和気(ワキ)藹々(アイ/\)たるものであつた。
「世は遷り変るとも、おたがひ宗族の血はかうして世に存し、また巡り会つて、今日をよろこぶことができる。力を協(あは)せて、ふたゝび漢朝の栄えを見ることに兄弟ひとつにならうではありませんか」
情を叙(の)べるに玄徳は涙し、劉璋も力を得て、彼の手を押(おし)戴(いたゞ)き、
「これで蜀も外から侵される心配はない」と、かぎりなく歓んだ。
歓宴歓語、数刻に移つて、玄徳はあつさり帰つた。彼のつれて来た五万の軍勢は、城外の涪江々畔においてあるからである。
玄徳が帰ると、劉璋は左右のものへすぐ云つた。
「どうだ。聞きしにも優る立派な人物ではないか。王累、黄権などは、人を見る明がなく、世の毀誉褒貶を信じて予を諫め、自ら死んだからいゝやうなものゝ生きてゐたら予にあはせる顔もあるまい」
蜀中の文武の大将は、これを聞いて、なほさら案じた。鄧賢(トウケン)、張任(チヤウジン)、冷苞(レイハウ)など交々(こも/゛\)に出てはそれとなく、
「人は見かけに依らぬといふたとへもあること。まして外柔なるは内剛なり。万一の変あるときは取返しがつきません」
と、用心を促したが、劉璋は笑つて、
「さういち/\人を疑つてゐたら、人の中には住めまいが」
彼は自身云ふが如き好人物であつた。もし庶民のあひだに生れてゐたら、少くも家産はつぶし、人にも〔のべつ〕欺(だま)されてゐたらうが、その代りに、
(彼はよい男だよ)
と、愛されもしたらう。
けれど、蜀の主権者であり万民に臨む太守としては、殆(ほとん)ど、その資格無きものといつていゝ。
「どうでした。劉璋とお会ひになつてみた感じは」
玄徳が帰るとすぐ龐統がたづねた。玄徳は一言、
「真実のある人だ」
と云つた。然し、龐統はそのことばの裏を読んで、
「愚誠(グセイ)の人物ともいへませう」と、答へた。
玄徳はだまつて眼をしばたゝいた。劉璋に対して愍然(ビンゼン)たるものを抱(いだ)いてゐるやうな眸である。
「噫(あゝ)。お気の弱い」——龐統は彼の胸をすぐ看破した。そして、
「君。何のために、この山川(サンセン)の嶮(けは)しきをこえ、万里の遠くへ、将士をつれて来ました」
と、直言し、更に、
「明日、答礼の酒宴にことよせて劉璋をお招きなさい。決断が大事です。小さい情に囚(とら)はれてゐるときではありません」
と、切々説いた。
そこへ法正も来て、
「成都に留守してゐる張松も、疾(と)く書簡をよこして、この期を失はず、事を計れと、内応の諜しあはせを云ひよこしてゐます。——あなたが蜀をお取りにならなければ、結局、この蜀は、漢中の張魯か、魏の曹操に奪(と)られるものです。何を今更、お迷ひになることがありませうぞ」
と、口を極めて励ました。
もとより入蜀の目的はそれにある。玄徳とてこゝに来て思ひ止(とゞ)まつたわけではない。彼はたゞ自己の心の中の情念と闘つてゐるだけだ。すなはち建安十七年の春正月、こんどは彼が主人になつて、劉璋を招待することに極(き)きめた。
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次回 → 鴻門の会に非ず(三)(2026年5月20日(水)18時配信)

