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前回はこちら → 兇門脱出(二)
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「皇叔、改まつて、予に願ひとは、何であるか」
「それがしに、丞相の一軍をおかし賜はりたいのであります」
「わが一軍をひきゐて、君はそもどこへ赴かうとするか」
「いま満寵が語るを聞けば、淮南の袁術は自己の僭称(センシヨウ)せる皇帝の名と共に、持つところの伝国の玉璽をも、兄袁紹へ譲与して、内にはふたり力を協(あは)せ、外には河北、淮南を一環に合体して、いよ/\中原へ羽翼を伸張しきたらんとする由。——これは丞相にとつても、捨(すて)おきがたい兆ではありますまいか」
「もとより由々しい大事だが——それに就(つい)て、君に何かの対策がある?」
「袁術が淮南をすてゝ河北に行くには、かならず徐州の地を通らねばなりません。それがし今、一軍を拝借して、急に馳せむかひ、彼の半途を襲へば、かならず丞相の憂を除き、ふたつには袁紹が帝位をのぞむ僭上(センジヤウ)を懲(こら)し、すべて彼等が企むところの野心を未然に粉砕してお目にかけまする」
「君にしては、常にない勇気であるが、どうして君はさう俄(にはか)に思ひ立たれたか」
「袁術、袁紹を不利ならしめればいさゝか恩友公孫瓚の霊も、なぐさめ得られようかと思ひまして」
「なるほど、君の信義もあるのか。袁紹は恩友のかたきでもあれば、——といふわけだな。よろしい、明朝、相伴うて天子に謁し、君の望みを奏上しよう。君が赴いてくれゝば予も気づよい」
翌日、朝廷に出て、曹操から右のよしを帝に達すると、帝は御涙をうかべて、玄徳を宮門まで見送られた。
玄徳は、将軍の印を腰におび、朝(テウ)をさがつて相府に立寄つた。そして曹操から、五万の精兵と二人の大将を借(かり)うけるや、取るものも取(とり)あへず、許都の邸館をひき払つて出発した。
「なに、劉皇叔が、許都を立つたと?」
驚いたのは、かの董承である。——董承は、十里亭まで、馬をとばして、玄徳を追(おひ)かけて来た。
玄徳は、董承にむかつて
「国舅、安んじ給へ。日頃の約を忘れるわれに非ず。都を去るとも、わが心は、寸時も天子のお側を離るゝことなからん。たゞ、かねての大事を、曹操に気どられぬやう、御身をよく慎まれよ」
と、諭して別れた。
そして彼はなほ急ぎに急いで昼夜、行軍をつゞけた。
関羽、張飛はあやしんで、
「いつにもない家兄の急。何故そのやうに、周章(あわ)てふためいて、都をば出られるので?」
訊くと、玄徳は、
「今だから、云ふが、われ許都にあるうちは、一日たりとも、無事に安んじてゐたことはない。許都にゐた間の身は、籠の中の鳥、網の中の魚にもひとしい生命であつた。もし、〔ひよツと〕でも曹操の気が変つたら、いつ何時彼のために死を受けようも知らなかつた。……あゝ漸(やうや)く、都門を脱して、今は魚の大海に入り、鳥の青天へ帰つたやうなこゝちがする」
と、心から述懐した。
さう聞いて関羽、張飛は、
「実(げ)にも」
と今さらの如く、玄徳の心労にふかく思ひを打たれた。——無事と見えた日ほど玄徳の心労は却(かへ)つて多かつたのである。
——一方、その後で。
諸軍の巡検から許都に帰つてきた郭嘉は相府に出て、初めて玄徳の離京と、大軍を借(かり)うけて行つた事実を知り、
「もツてのほか!」
と愕(おどろ)いて、すぐ曹操に会ひ、口を極めて、その無謀をなじつた。
「何だつて、虎に翼を貸し、あまつさへ、野に放つたのですか。一体あなたは、玄徳をすこし甘く見過ぎてゐませんか」
とまで彼は切言した。
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次回 → 兇門脱出(四)(2024年12月26日(木)18時配信)
昭和15年(1940)12月26日(木)付の夕刊は休刊でした。これに伴い、明日12月25日(水)の配信はありません。