第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 死活往来(八)
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【前回迄の梗概】
後漢の乱れに乗じて天下を私せんとした董卓は勇将呂布と結び曹操、袁紹、孫堅等によく対抗し、正に帝位に一歩のところまで来たが、大臣王允が美女貂蟬と計つて董卓、呂布の間を裂いたために、董卓は謀殺されてしまふ。その王允も董卓の残党李傕等のために自殺し果てる。兵馬の権は未だ誰のものとも定かに言ふことが出来ない。この間にあつて風雲児曹操は再び強兵を擁して一方の雄として登場する。
徐州の太守陶謙は曹操の父を歓待したのが却つて禍を招くもとゝとなり、曹操のために攻められるが、劉備等の来援を得て決戦せんとする。曹操の背後を衝いて出たものは呂布であつた。曹操は陶謙と一時和し、呂布を濮陽に包囲する。
呂布の下には智将陳宮がある。その謀によつて曹操はおびき出されて火戦の中に一命も危かつたのであるが、偉丈夫悪来こと典韋の働きによつて大火傷の後一命だけは助かる……
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夜は白々と明けた。
将も兵も散々(ちり/゛\)ばら/\に味方の砦(とりで)へ帰つて来た。どの顔も、どの姿も、惨憺たる敗北の血と泥にまみれてゐる。
しかも、生きて還つたのは、全軍の半分にも足らなかつたのである。
そこへ、悪来と夏侯淵に扶けられた曹操が、馬の鞍に抱へられて帰つてきたので、全軍の士気は墓場のやうに銷沈してしまひ、滅失の色深い陣営は、旗さへ朝露重たげにうなだれてゐた。
「何。将軍が戦傷なされたと?」
「御重傷か」
「どんな御容体か」
聞き伝へた幕僚の将校たちは、曹操の抱へこまれた陣幕の内へ、どや/\と群れ寄つてきた。
「叱(シ)ツ……」
「静かに」
と、中の者に制されて、何か恟(ぎよ)つとしたものを胸に受けながら、将校たちは急に厳粛な無言を守り合つてゐた。
手当に来てゐた典医がそつと戻つて行つた。典医の顔も憂色に満ちてゐる。それを見ただけで、幕僚たちは胸が迫つて来た。
——すると、突然、幕(とばり)のうちで、
「わはゝゝ、あはゝゝ」
曹操の笑ふ声がした。
しかも、平常よりも快活な声だ。
驚いて一同、彼の横臥してゐる周りを取巻いて、その容体を覗(のぞ)きこんだ。
右の肱から肩、太股まで、半身は大火傷に爛(たゞ)れてゐるらしい。繃帯(ハウタイ)ですつかり巻かれてゐた。顔半分も、薬で塗つて、白い覆面をしたやうに片目だけ出してゐた。唐黍(たうもろこし)の毛のやうに、髪の毛まで焦げてゐる。
「もう、いゝ。心配するな」
片目で幕僚を見まはしながら、曹操は強ひて笑ひを見せて、
「考へてみると、何も、敵が強いのでもなんでもない。おれは火に負けた迄(まで)だ。火には敵(かな)はんよ。——なあ、諸君」
と、云つて又、
「それと、少し軽率だつた。たとへ、過(あやま)ちにせよ、匹夫呂布ごとき者の計に墜ちたのは、われながら面目ない。しかしおれも又彼に向つて計を以(もつ)て酬いてくれる所存だ。まあ、見てをれ」
すこし身を捻(ね)ぢらうとしたが、体が動かない。無理に首だけ動かして
「夏侯淵」
「はつ」
「貴様に、余の葬儀を命ずる。葬儀指揮官の任に就(つ)け」
「不吉なお言葉を」
「いや、策だ。——今暁、曹操遂に死せりと、喪を発するがよい。伝へ聞くや、呂布はこの時とばかり、城を出て攻め寄せて来るにちがひない。仮(かり)埋葬(マイサウ)を営むと触れてわが仮の柩(ひつぎ)を、馬陵山(バリヨウザン)へ葬れ」
「はつ……」
「馬陵山の東西に兵を伏せ、敵をひき寄せ、円陣のうちに捉へて、思ふ存分、殲滅してくれるのだ。わかつたか」
「わかりました」
「どうだ、諸君」
「御名策です」
幕僚は、その場で皆、喪章をつけた。——そして将軍旗の竿頭(カントウ)にも、弔章が附せられた。
——曹操死す。
の声が伝はつた。真(まこと)しやかに濮陽にまで聞えて来た。
呂布は耳にすると、
「しめた、おれの強敵は、これで除かれた」
と膝を叩き、念の為(た)め、探りを放つて確(たしか)めると、喪の敵陣は、枯野のやうに、寂(セキ)として声もないといふ。
馬陵山の大葬(タイサウ)日(び)を狙つて、呂布は濮陽城を出て、一挙に敵を葬り尽さうとした。ところが何ぞ計らん。それは呂布を拉(ラツ)して冥途(あのよ)へ送らんとする偽りの葬列だつた。
起伏する丘陵一帯の陰から、忽(たちま)ち鳴り起つた陣鼓(ヂンコ)鑼声(ラセイ)は、完全に呂布軍をたゝきのめした。
呂布は、命から/゛\逃げた。一万に近い犠牲と面目を馬陵山に捨てゝ逃げた。——以来、それに懲々(こり/゛\)して、濮陽を堅く守り、容易にその城から出なかつた。
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次回 → 牛と「いなご」(一)(2024年6月1日(土)18時配信)