戦前、10月17日が祝日(神嘗祭)であったことに伴い、本日は吉川英治『三国志(新聞連載版)』の配信はありません。その代わり……というわけではありませんが、このテクスト(作品)のメタデータの一つである「分巻」について整理しておきたいと思います。
メタデータとは、
コンテンツ自身のことを説明するためのデータのことで、本について言えば本の「タイトル」「著者」「出版社」「発行日」「値段」などが該当します。
※引用:総務省「コンテンツのメタデータ付与について」
https://www.soumu.go.jp/main_content/000225131.pdf
すなわち、『三国志』(タイトル)、吉川英治(作者)、講談社(出版社)などが、このテクストにとってのメタデータということになります。テクストに関して検討する場合、そのメタデータは極めて重要な材料となります。それゆえに慎重に扱うべきものとも言えるでしょう。
その一例として、吉川英治『三国志』の「分巻」について考えてみたいと思います。
現在の吉川英治『三国志』は10巻に分けられるのが通例です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97_(%E5%90%89%E5%B7%9D%E8%8B%B1%E6%B2%BB)
具体的には以下の10巻となります。
①「桃園の巻」②「群星の巻」③「草莽の巻」④「臣道の巻」⑤「孔明の巻」⑥「赤壁の巻」⑦「望蜀の巻」⑧「図南の巻」⑨「出師の巻」⑩「五丈原の巻」
この分巻の特徴として、巻名と内容が必ずしも一致しないことが挙げられます。顕著なのが⑧「図南の巻」で、巻名からは孔明の南蛮討伐が想像されますが、この巻は曹操の魏公昇進から樊城の戦いで関羽が于禁を捕らえるまでを語っています。南蛮討伐が語られるのかなり先のことになります。
何故このような現象が起こるのでしょうか? これは10巻に分けることが、連載当初から企図されていたわけではないことに由来します。
新聞連載そのものを確認すると第1回「黄巾賊(一)」から〜第94回「故園(三)」までが「桃園の巻」であり、第95回「乱兆(一)」から「出廬の巻」に変わります。つまり、巻名をつけて分けられてはいますが、単行本とは全く一致しません(新聞連載版の分巻については、別稿に譲ります)。
本格的な分巻は、単行本の刊行より始まります。吉川英治『三国志』の初単行本(初版)の出版は、昭和15年(1940)から昭和21年(1946)にかけて。10巻ではなく、全14巻で刊行されています。巻名は各巻に附されますので、全部で14あることになります。具体的には以下の通り。
①「桃園の巻」②「群星の巻」③「草莽の巻」④「大江の巻」⑤「臣道の巻」⑥「新野の巻」⑦「孔明の巻」⑧「赤壁の巻」⑨「望蜀の巻」⑩「三立の巻」⑪「麦城の巻」⑫「図南の巻」⑬「出師の巻」⑭「五丈原の巻」
10巻本と比較すると、④「大江の巻」⑥「新野の巻」⑩「三立の巻」⑪「麦城の巻」が10巻本では無くなっていることが判ります。初版は全14巻、現行本は(当初)全10巻での刊行ですから、この削除は当然ではあります。
ややこしいのは、14巻本と10巻本の間に8巻本が存在していることです。8巻本は以下のように構成されています。
①「桃園の巻」②「草莽の巻」③「臣道の巻」④「孔明の巻」⑤「赤壁の巻」⑥「望蜀の巻」⑦「図南の巻」⑧「五丈原の巻」
14巻本と比較すると、②「群星の巻」④「大江の巻」⑥「新野の巻」⑩「三立の巻」⑪「麦城の巻」⑬「出師の巻」が無くなっています。②④⑥⑩⑪⑬と、一つ飛ばし……とまでは言わないものの満遍なく巻名を抜いて再構成しています。ですから、巻名と内容には然程(さほど)大きな齟齬はありません。
その後、10巻本として再構成されるに当たり、14巻本の巻名の中、②「群星の巻」と⑬「出師の巻」が復活します。つまり、序盤と終盤の巻名のみが復活したわけです。このため、先述したように「図南の巻」は内容と合致しない巻名となったと推測できます。
強めに言えば、10巻本として再構成する際の編集作業が杜撰だったのであり、現行本はその杜撰を継承してしまっているとも言えます。(了)