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絢爛たる軍蕭々と遠近(あたり)を払つて、潼関にまで進んだ。
曹操は、遙かに樹木の生ひ繁つた所を見て、
「あれは、いづくぞ」と、従者に問ふ。
「藍田(ランデン)と申すところです。あの樹林のうちが、すなはち蔡邕(サイユウ)の山荘でございます」
近侍の答へに、曹操は往事を思ひ出して、山荘を訪れようと云つた。
むかし、蔡邕と交りを深めてゐた頃の話であるが、蔡邕に蔡琰(サイエン)といふ娘があつた。縁あつて、衛道玠(エイドウカイ)に嫁いだが、韃靼(ダツタン)に生(いけ)虜(ど)られ、胡(えびす)のために無理に妻とせられてしまつた。
蔡琰の悲嘆は、天地も崩れるばかりであつたが、遂に胡(えびす)の子二人までも生んだ。しかし明けるにつけ、暮るゝにつけ、この沙漠不毛の国に囚れては、故郷恋しく、涙に袖の乾く間もなかつた。
とりわけ、胡(えびす)が好んで吹く、笳(カ)といふ笛を聴く度に、郷愁はますばかりで、つひには、思慕の悲しさから、みづから十八曲を作曲した。
この曲が、いつしか伝へ伝はつて、中国に流布されたのを、偶然曹操が聴き、その心情の哀れさに、韃靼国へ人を遣(つかは)して、千両の黄金を以て蔡琰を渡すやう交渉した。
胡(えびす)の左賢王(サケンワウ)も、曹操が勢の盛んなるを知つてゐたので、渋々ではあつたが、蔡琰を還してよこした。
曹操はよろこんで、董紀(トウキ)を呼んで、その妻として蔡琰を妻(めあは)せた。
いまはからずも、蔡邕の荘と聞き、大軍を先に進ませ、みづからは近習(キンシフ)のもの百騎ほどを連れて、董紀の宅を訪れた。
丁度主人の董紀は所用で留守であつたが、曹操がわざわざの来駕と聞き、蔡琰は驚いてみづから鄭重に迎へた。
曹操は、堂に坐して、健勝をよろこび、堂内をうち眺め、壁に一つの碑文を書した画軸のあるのに気付き、
「これは、いかなるものか」
と訊ねた。蔡琰はかしこまつて
「これは、曹娥(サウガ)と申すものゝ碑文でございます。昔、和帝(クワテイ)の朝(テウ)、会稽の上虞(ジヤウグ)といふところに、曹旴(サウウ)と申す一人の師巫(かむなぎ)がをりました。この人は神楽の上手な人で、ある年の五月五日、したゝか酒に酔ひまして、舟の上で舞ひますうち、あやまつて川に落ち、水に溺れて、たうとう死にました。その人に十四歳になる娘がありましたが、これを哭(な)き哀しみまして、毎日毎夜川のふちをめぐつてをりましたが、七日七夜目、たうとう娘も淵に飛び込んでしまつたのです」
曹操は、感じ入つたごとく、まじろぎもせず、蔡琰が語るを聴き入つてゐた。
「……それから五日目のことでございます。その娘が、父の屍(かばね)を負うて、水面に浮び出ましたので、里の人々は父を思ふ娘の一念に驚きましたが、この心を憐れに思ひまして、岸の辺に懇(ねんごろ)に葬りました。程なく、このことが、上虞の令(レイ)度尚(トセウ)と申す人から帝に奏され、孝女なりと仰せられ、邯鄲淳(カンタンジユン)に文章を草すべく命ぜられ、石にその事を刻まれました。邯鄲淳はこのとき年歯わづかに十三歳で、筆を揮つてこの文を作(な)し、一字も訂正しなかつたと申します。父蔡邕はこのことを聞きまして、碑のもとに行き、その文を見ようとしましたが、日すでに没し、読むことができませんので、指で石を撫で、筆画を探つて読み、感じて、碑(ヒ)背(ハイ)に八字を書きつけましたが、後になつて里人が、その八字を刻みつけました。そちらにございますのが、父の筆の跡(あと)でございます」
蔡琰の指す方の軸を見れば、
「黄絹幼婦(クワウケンヨウフ)。外孫韲臼(グワイソンサイキウ)」
と八字が書かれてあつた。
曹操は、この文を読み下して、蔡琰にむかひ、
「汝、この八字の書の意味を知るか」
と訊ねた。
蔡琰は、頰を染め、
「父が書きました書、その意(こゝろ)を知りたくは思つてをりましたけれど、未だにその意を解しかねてをります」
と答へた。
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次回 → 絶妙好辞(三)(2026年9月5日(土)18時配信)
昭和17年(1942)9月5日付(9月4日配達)の『中外商業新報』夕刊では吉川英治『三国志』は休載でした。これに伴い、明日9月4日の配信はありません。

