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前回はこちら → 老将の功(二)
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厳顔は黄忠と攻略手段を打合せ、一軍を率ゐていづこかに進発して行つた。
居残つた黄忠は、夏侯尚の軍が寄せてきたと聞いて、陣容を整へてこれを待つと、魏の軍中より、韓浩先頭に立現れ、
「逆賊黄忠いづこにありや、見参!」
と鎗をかまへて打つてかゝつた。
黄忠が刀をまはし、立出でれば、夏侯尚は彼が背後へ、背後へと回らんとする。
情勢不利と見て、黄忠は折を測つては逃げ、立直つては戦ひ、又逃げして二十里あまり退(さが)つた。
彼の誘導作戦である。
夏侯尚は追ひまくつて、黄忠の陣を奪取した。
次の日も、同じような戦が行はれて、又も二十里ほど進み、夏侯尚の意気は当るべからざるものがある。韓浩も気勢をあげ、これにつゞき、先に奪ひとつた黄忠の陣に着くと、すぐ張郃を呼び、跡の陣屋を守るやう頼んで、なほも進まうとした。
張郃は、この二将がいゝ気になつて前進するのが危なく思はれるので、
「黄忠ほどの剛の者が、易々と二日に亙(わた)つて負けてゐるのは解せない。必ず彼に何かの計があるに違ひない。軽々と深追ひせぬ方がよろしいと思ふが」
と注意したが、夏侯尚は却(かへ)つて怒り、
「汝がごとき臆病者は、敵を怕(おそ)れるばかり故、宕渠山の陣を破られ、数多の人馬を失ひ、見苦しき恥をさらすのだ。黙つて、我等が武功を見物してゐればよろしいわい」
と、張郃の恥入つて顔(かほ)赧(あか)らめるを、小気味よげに見送りながら前進してしまつた。
次の日も、敵は二十里退却した。
かうして、次々と敗走した形で、たうとう葭萌関に逃げ込んだまゝ、今度はどうしても出て来なくなつた。
夏侯尚は、関前に陣を構へた。
この様子を見た孟達は、大事出来とばかり、玄徳のもとに早馬を飛ばし、黄忠が一戦ごとに負け、五ケ所もの陣を敵に奪はれたと告げた。玄徳も驚いて孔明にこの由を告げると、
「お驚きになることはありますまい。これは黄忠が驕兵(ケウヘイ)の計に違ひありません」
と、平然たる答へである。
しかし、趙雲等も、孔明の言を信じられず、玄徳の不安もあつて、ひそかに劉封に一軍をつけて黄忠救援に赴かしめた。
劉封の兵が葭萌関に着くと聞いて、黄忠はいぶかり、
「なにゆゑに、兵を伴つてこゝに来たか」
と、問うた。
劉封は答へて、
「わが父、将軍の苦戦を知り、わたくしに援軍の命が下つたのです」
黄忠は笑つて、
「これは、わしが驕兵の計ぢや。今宵の一戦に、見事敵を叩きのめすであろう。五ケ所の陣を捨てたは、暫時敵にこれを貸し与へ、つとめて兵粮などを貯へさせ、数日間の敗を一日にして取戻さんためだ。よく見物してゆくがよい」
と言ひ、全軍に戦闘準備を命じていそがした。
その夜半。
黄忠はみづから五千餘騎を従へ、直ちに門を開いて攻撃の火蓋を切つた。
この時、魏の軍勢は、こゝ数日敵は静まりかへつてゐることとて、すつかり心をゆるめ、尽(ことごと)く眠つてゐたので、思ひもかけぬ喊(とき)の声とともに、五千餘騎の攻撃をくらひ、武器のありかも分らず奪ひ合ひ、馬を乗り違へるなど、大混乱を起し、みじめにも黄忠の軍に踏みにじられてしまつた。
夏侯尚も、韓浩も、ともに乗馬さへ見当らず、辛うじて徒歩で逃げて、一夜のうちに、折角取つた陣のうち、三ケ所まで奪取され、死傷の数もおびたゞしく生じた。
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次回 → 老将の功(四)(2026年8月31日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。

