(承前)
四
一方、『演義』から逸脱する作品も存在する。よく知られたところでは王欣太(原案:李學仁)『蒼天航路』がそれである。その二百十三「下劣な策」に現れる劉琮は髭を蓄えた成人男子として描かれる。これにもおそらく原拠がある。
高島俊男『三国志:きらめく群像』(ちくま文庫、2000年)は、以下のように指摘する。
さて実在の蔡瑁のほう——
蒯越、韓嵩らとともに劉表のブレーンの一人で、同時に劉表の親戚筋、というのはほんとうである。劉表の後妻蔡氏は蔡瑁の姉である。ただし、劉琮は蔡氏の生んだ子ではない。蔡姉弟のめいが劉琮の妻、という関係である。(p.164)
高島は出典を明示しないが、『後漢書』の名を出す。そして、高島の指摘は、『後漢書』劉表伝に現れる記述に即している。
〔劉表の〕二人の息子は劉琦と劉琮と言った。もともと劉表は劉琦の容貌が自分に似ていたため、これを寵愛していた。後に劉琮が〔劉表の〕後妻蔡氏の姪を娶ったので、蔡氏は劉琮を寵愛して劉琦を疎んじ、劉琮を褒め劉琦を貶す言を劉表に吹き込むようになった。劉表は後妻に耽溺していたので、その言を真に受けた。また、妻の弟の蔡瑁と外甥(姉妹の子であろうか)張允も劉表に寵愛を受け、劉琮と親しく交わるようになった。
(二子琦琮。表初以琦貌類於己。甚愛之。後為琮娶其後妻蔡氏之姪。蔡氏遂愛琮而惡琦。毀譽之言日聞於表。表寵耽後妻。每信受焉。又妻弟蔡瑁及外甥張允並得幸於表。又睦於琮。)
正史『三国志』には存在しない情報が、ここでは多々現れる。まず、①蔡氏が後妻であること、②蔡氏と蔡瑁が姉弟であることは確認される。さらに、蔡瑁については、魏志劉表伝、『後漢書』劉表伝ともに③劉表の側近であること、④襄陽、すなわち劉表の本拠地の出身であることに言及する。これらの情報から、蔡一族が襄陽の有力者であり、それゆえに荊州に入った劉表が蔡氏を娶ったであろうことも容易に想像できる(ちなみに、劉表の先妻がいつ亡くなったかは未詳)。①〜④は(②については前述したように留保がつくとは言え)『演義』でも踏襲される「設定」である。換言すれば、『演義』は、劉表周囲の人間関係について、『後漢書』とも多くの点で一致する。
ただし、大きな齟齬が一点存する。言うまでもなく、劉琮が蔡氏の実子ではない、ということである。また、これに附随する形で、劉表の死去する前に、少なくとも妻を娶る年齢に達していたことも『演義』の語るイメージとは重ならない(『演義』の語るイメージは、横山光輝『三国志』の描く少年劉琮に象徴されよう)。
もちろん、我々とは常識が異なり、当時の婚姻年齢は若い。しかし、劉琮の場合、劉表死去の際に少年とは言い難い年齢であった可能性が高かろう。次節で論拠を示す。
五
劉琮の父である劉表の履歴が焦点となる。前述したように劉表の生年は漢安元年(142)とされ、黄巾の乱(184)の際、すでに43歳となっている(曹操は30歳、劉備は24歳)。
劉表が荊州に入ったのは、前の荊州刺史であった王叡が殺害され、その後継の刺史に任命されたからであった(魏志劉表伝)。呉志孫破虜伝に拠れば、王叡殺害は、首都洛陽に入った董卓の横暴に対し、関東諸侯が挙兵した直後と思しいので、初平元年(190)のことと考えて大過なかろう。そして、その後、董卓亡き後に長安を占拠した李傕と郭汜がその助力を期待して、劉表を鎮南将軍、荊州牧に進めている(魏志劉表伝)。献帝が長安を脱出する以前のことであろうから、興平2年(195)7月よりは早い時期のことである。
劉表が襄陽の有力者一族の出身である蔡氏と結婚したのは、荊州に入った後なのは疑いない(そうでなければ、そもそも婚姻関係を結ぶ意味がない)。そして、劉琦も劉琮も、この婚姻以前には生まれていたと考えるのが合理的であろう。すなわち、2人の生年の下限は初平元年(190)辺りとなる。この歳、劉表49歳。
ある人物が何歳の時に子を持つことになるかは千差万別ではあるが、何となくの標準のようなものは存在する。劉表の場合、同じ時代の群雄であった曹操や孫堅などが参考にはなろう。
曹操の長子、曹昂は「弱冠で孝廉に推挙され、太祖(曹操)の南征に従ったが、張繡に殺された(弱冠舉孝廉。隨太祖南征。為張繡所害。)」(魏志豊愍王昂伝)とある。一方、魏志武帝紀により、曹昂の殺された戦いは、建安2年(197)のことだと確定できる。「弱冠」は20歳のことを言うのが通例であるから(『礼記』曲礼上)、曹昂が孝廉に推挙された年が文字通りの弱冠であり、同年に殺害されたと仮定すると、その生年は熹平7年(178)。曹操24歳の時である(曹昂が孝廉に推挙されたのが殺害された年より早いとすれば、もっと年少の時の子ということになる)。
孫堅の長子孫策は建安5年(200)に26歳で横死する。逆算すると、その生年は熹平4年(175)。孫堅の生年は確定できないのであるが(いずれ別稿で整理します)、熹平4年には19〜21歳のはずである。
また、上述したように孫堅の長子孫策は26歳で死去しているが、すでに子が生まれていた(呉志孫討逆伝)。つまり、当時、20代で長子が生まれているのは、標準とは言えそうである。
これを劉表に当て嵌める。やや幅を持って30歳までに長子劉琦が生まれていたとすると、建寧4年(171)より以前ということになる。仮にこの年に劉琦が生まれたとすれば、劉表が死去した建安13年(208)において、劉琦は38歳ということになる。
劉琮はどうか。前節で述べたように、『後漢書』に従うならば、劉琮が初平元年(190)までに生まれていた可能性は高い。下限一杯に見積もれば、初平元年生まれとして建安13年(208)には19歳であったことになる。
しかし、そもそも劉琮が後継者として扱われるようになったのは、①蔡一族の女性を娶る、②それにより父劉表の後妻である蔡氏に寵愛されるようになる、③蔡氏が劉表に色々と吹き込み、劉表が劉琦を疎んずるようになる、という段階がある。また、劉表死去時に19歳であったとすれば、劉琦との年齢差は20歳近くになる。38歳と19歳という年齢差で(しかも他の兄弟の存在が見えないにもかかわらず)劉琦が後継者の座を劉琮に奪われたとするのはかなり無理があるようにも思われる。
さらに言えば、曹操に降伏した直後、劉琮は青州刺史に任命され(魏志劉表伝)、諫議大夫と参同軍事を加えられている(同前裴註所引「魏武故事載令」)。無論、州を挙げて曹操に降伏した論功行賞であるとは言え、この時代の州刺史は名誉職には思われず、職務を遂行する能力を見込まれている可能性はあろう。すなわち、州刺史が務まる程度には評価されていることになる(青州に向かう蔡氏と劉琮母子を曹操が于禁に殺させるのは、『演義』の創作と断じてよかろう)。
如上の考察に基づけば、劉琮は劉表死去時に、『演義』の語るように14歳の少年ではあり得ず、若くとも20歳前後であり、30歳に達していた可能性も否定できない。『蒼天航路』の劉琮の姿もある種の必然性が存するわけである。
六
正史『三国志』の記述が簡潔に過ぎるゆえ、劉琦と劉琮に関する『演義』の記述は正史『三国志』とは齟齬を来さない。一方、『後漢書』とは明らかな齟齬がある。ならば、焦点は史料としての正史『三国志』と『後漢書』の取り扱い、ということになろう。端的に言えば、正史『三国志』の記述内容には現れない『後漢書』のそれを「事実(実際にあったこと)」として扱うか否かである。
実のところ、正史『三国志』と『後漢書』双方の記述内容の間に齟齬はない。今回採り上げた話題に限れば、両者は併存できる。『後漢書』と『演義』が併存できないのだ。
三国志に詳しい人であればこそ、「それは『演義』が誤っている」と即断するであろう。しかし、この論法であれば、『演義』にしか現れない記述内容は「事実」ということになりはしないか。我々は正史『三国志』には見えない『後漢書』の記述内容を「事実」であると何の根拠もなく決めつけているのであるから。
『後漢書』に記載してあれば「事実」で、『演義』に記載してあれば「事実」ではない。これは単なる先入観あるいは権威主義でしかない。これでは「おもしろくない」。
この感覚を出発点として、今後も考察/妄想を積み上げてゆきたい。
おつきあいいただければ幸甚です。(了)