2023年7月8日20時からのシラス「三国志ラビリンス」配信と連動した原稿となりますが、単独でも読めるものとしたつもりです。有料読者となることでコメントすることが可能となっていますが、月額制なので、もう少し配信記事が増えてから課金していただいた方が効率がよいと思います(笑)。
シラス配信URL → https://shirasu.io/t/3594labyrinth/c/3594/p/202307082000
一
三国志について考える際、「史実」と「虚構」の辨別は大問題の一つである。「史実」と「虚構」をどう定義づけるか? というのも大問題の一つではあるけれども、別稿に譲ることとし、ここでは措く。とりあえず、「史書」の記述を「史実」、史書ではない作品(テクスト)の記述を「虚構を含むもの」として話を進めたい。
現代における三国志の存在は、『三国志演義』抜きには語り得ない。それゆえ、「史書」との不整合を根拠に『演義』を「誤」と断じ、排除することは否定されるべきであろう。しかし、これは『演義』と「史書」それぞれの記載内容の差異を辨別しなくてもよい、ということではない。詳細な継承の流れはともかく、「史書」の多くは『演義』に時間的に先行し、後者が多かれ少なかれ前者の影響を受けていることは間違いないからである(それゆえ、前者と後者の差異は、後者の「作意」を検討する際に重要な材料となる)。
一方、「史実」も唯一無二のものではない。たとい同一対象(同じ事件)であっても、複数の史書の記述が完全に一致することはない。「語り手」が異なる以上、当然のことではある。特に三国志の場合、最有力な「史実」を語るはずの正史『三国志』が、簡潔な記述であるゆえ*、複数の「語り」がどうしても存在する。
* 劉宋の太祖(文帝。劉義隆。407−453。在位424-453)は、正史『三国志』の文章が「簡略すぎる缺点があり、時として遺漏もある(然失在于略。時有所脫漏。)」ゆえに、裴松之(372−451)に命じて、異聞を博捜させ、註記させたとある(裴松之「上三国志注表」)。
この「三国志紀事本末」というシリーズ記事は、三国志をめぐる複数の「語り」を、事件を基準として集約しようという試みである。その導入として、今回は、三国志の「史実」をめぐる複数の「語り」の一端を紹介し、「史実」と「虚構」の関係を考える端緒としたい。
二
時は建安13年(208)、舞台は荊州である。この年の末に、名高い「赤壁の戦い」が起こっている。
その当事者の一人、劉備は数年前から荊州にいた。と言っても荊州を統治していたわけではなく、荊州を統治していた州牧(官職名。荊州長官)劉表のいわば居候として、であるが。
劉表、字は景升。この建安13年に逝去している。享年は67歳とされるので、漢安元年(142)の生まれ。曹操より13歳の年長、劉備より19歳の年長ということになる。*
* 劉表の年齢に関する記述は正史『三国志』や『後漢書』には言及がない。廬弼『三国志集解』は「恵棟曰く、『鎮南碑』は享年六十七と云う(惠棟曰。鎮南碑云。年六十七。)」と註記する(原典未確認)。本稿では、この指摘に従って劉表の年齢を考える。
さて、本稿の主題は、劉琦と劉琮という劉表の2人の息子である(劉琦が兄、劉琮が弟)。結局、弟である劉琮が劉表の後継となったが、荊州に侵攻して来た曹操に対し、劉琮は一戦も交えずに降伏。荊州から離れた青州刺史に任ぜられることとなる。一方、兄の劉琦は曹操と敵対する劉備に協力するも、翌年に逝去している。
何故、弟である劉琮が兄を差し置いて劉表の後継者となったのか? これについて、『演義』は判りやすい「理由」を準備する。『演義』において、劉琦は劉表の先妻陳氏の子、劉琮は後妻である蔡氏の子として設定される。蔡氏は荊州土着の有力者である蔡一族の出身であり、その兄もしくは弟である蔡瑁*と協力して、劉琮を劉表の後継者とすべく劃策する(ちなみに『演義』の劉備は、後継者として長子である劉琦を後継者として推奨。それゆえ、蔡氏と蔡瑁から深く恨まれることになる)。なお、劉表死去時、劉琮は14歳の少年に「設定」されている(『演義』第40回)。劉琦の年齢は定かではないが、20歳前後のイメージに思われる(これは竹内の主観)。
* 『演義』諸本では設定が一貫せず、第7回では蔡瑁は劉表の妻の兄、第34回では妻の弟になっている。
『演義』の蔡氏が実子である劉琮を推す構図は極めて判り易い。それゆえ、この「設定」は様々な後続の三国志作品に継承されている。『演義』の邦訳である『通俗三国志』は言うに及ばず、その翻案である吉川英治『三国志』、そのまた翻案というべき横山光輝『三国志』も同一である。
また、「史書」を積極的に参照している近年の三国志作品でも、この構図はしばしば踏襲される。例えば、杜康潤『孔明のヨメ』。本作は『演義』と正史を始め、広く中国の民間伝承まで参照した上で構成されている物語であるが、劉表の後継者については『演義』の設定を襲用する。すなわち、劉琦については「劉表の長男で、母は陳夫人。気が弱い」、劉琮については「劉表の次男で、母は蔡夫人。まだ成人前」としている(杜康潤『孔明のヨメ』12、芳文社、2021年、p.3)。
微妙なのが、宮城谷昌光『三国志』である。この作品は脱『演義』を標榜するが、劉表の後継者については以下のように言及する。
「おお、琦か……、なんじが江夏へ往ってくれるのか」
そういった瞬間、劉表は安堵のため息をついた。これで江夏郡は他人(ひと)に渡さずにすむということのほかに、最愛の継室の意望をかなえてやることができる。一石二鳥の善謀とはこれである、と気づいたのである。
(中略)
劉表の正室から生まれた劉琦は、どうみても劉表の嗣人であるが、正室が亡くなり、継室に男子が生まれたあとに、劉表の態度が変わった。継室から生まれた男子は、末子であり、劉琮という。(宮城谷昌光『三国志』第六巻、文春文庫、2010年、pp.157-158)
引用中の継室が蔡氏であれば、宮城谷『三国志』の構図も『演義』と合致することになる(しかし、管見の限り、その作中に継室が蔡氏であるとは明言されない。この宮城谷『三国志』の描写の根拠についても、次節で検討したい)。
三
『演義』を原拠としないのであれば、次なる原拠としてまず想起されるのは正史『三国志』であろう。劉表の後継者については、当然のことながら言及がある……のだが、「詳しい」とは言い難い。
〔劉表が病死する〕以前、劉表とその妻は少子(末子)である劉琮を寵愛しており、後継者に望んでいた。そこで蔡瑁と張允を劉琮の協力者とし、長子の劉琦を〔劉表の居城である襄陽から〕出して江夏の太守とした。これにより、みな劉琮を後継者として扱うようになった。(初。表及妻愛少子琮。欲以為後。而蔡瑁、張允為之支黨。乃出長子琦為江夏太守。衆遂奉琮為嗣。)(魏志劉表伝*)
* 「『三国志』魏書劉表伝」と書くべきであろうが、煩瑣を避けるため、誤解の恐れのない限り、『三国志』魏書を「魏志」、『三国志』蜀書を「蜀志」、『三国志』呉書を「呉志」と称する(これは、今後の別稿においても同じ)。
ここで、劉琮が劉表の後継者となった経緯は整理されている。また、本文ではなく、その註釈(裴松之註)が引く『傅子』には次のような記述がある。
〔曹操と袁紹が官渡で対峙していた頃、劉表はその動静を探らせるため、韓嵩を使者として曹操の許へ送った。韓嵩は使者に行った結果、劉表が自分を疑うことを危惧しており、その憂慮を劉表に告げた上で使者に赴く。帰還した韓嵩が朝廷より官職を受け、曹操の徳を称したため、劉表は激怒。韓嵩は自分が事前に憂慮を告げていたことを改めて述べる。〕劉表の怒りは収まらなかったが、妻の蔡氏がこれを諫めた。「韓嵩は楚国(荊州)の名望を集めており、またその言はまっすぐで、これを誅する理由がありません」。これを聞き、劉表はようやく誅殺を思いとどまり、収監するにとどめた。(表怒不已。其妻蔡氏諫之曰。韓嵩。楚國之望也。且其言直。誅之無辭。表乃弗誅而囚之。)
曹操と袁紹が官渡で対峙していたのは建安5年(200)のことである。この頃の劉表がすでに荊州におり、その妻の姓が蔡氏であることが確認できる。
劉表の死後、既定路線に沿って劉琮がその後を嗣ぐが、一戦も交えずに南下して来た曹操に降伏したことは前節で述べた。『演義』から宮城谷『三国志』に至るまで、この正史の記述を踏襲している。宮城谷『三国志』が劉表の妻の姓について言及しないのは、裴註所引『傅子』の記述を採用せず、正史本文のみを原拠とするからであろうか。
ところが、ここに重大な「見落とし」らしきものが存する。諸作品は共通して、劉琮の生母を劉表の継室(蔡氏)と「設定」するが、正史『三国志』及び裴註には、劉琮の生母に関する言及はない。さらに言えば、末子である劉琮を寵愛した劉表の妻が、継室であるかどうかも確定するのは難しい。
つまり、脱『演義』を標榜する宮城谷『三国志』でさえ、この挿話では『演義』の影響から完全に逃れられていない。それほどに、三国志の物語における『演義』の影響は強い、とも言えるが、一般化するのは早計であろう。この挿話においては、劉琮を蔡氏の実子とした方が、その後の物語展開が圧倒的に理解しやすくなるゆえに広く採用された、とするに止める。(続)